Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















SUKEBENINGENが語る「ハイコンテクスト・ノームコア」と「ビギンくん」の見分け方&ファッションの未来

 

基礎知識:「ビギンくん」とは、雑誌『Begin』で紹介されるようなド定番で無難なファッションアイテムを全身に纏っていい気になっているファッション初心者への侮蔑語である。

 

はじめに結論から述べよう。

SUKEBENINGENが賞賛する「ノームコア」→「ハイコンテクスト」と「ビギンくん」との区別は彼の議論において重要である。この区別がつく者はハイコンテクスト側の仲間入りを果たすが、できない者は「モード厨」との罵りを受ける。しかし「ハイコンテクスト」の定義は曖昧であるため、定義から演繹的に行われる議論は中断を余儀なくされる。ならば「どのように区別が判定されているのか」について、判定の側から帰納的に遡ってみることは、「ハイコンテクスト」について理解する一助となるだろう。

そして研究の結果、この「ノームコア」と「ビギンくん」が混同され得る危険性に、SUKEBENINGEN自身も危機感を感じているように思えるが、区別する基準は一度も明示されていない。

記事の最後に参考資料を用意したので各人でご参照頂きたい。また『FREE MAGAZINE』から関わる箇所も引用しているが、もちろん記述はゼロである。)

続きを読む

《展評》hatra―2016AW/BALMUNG―2016AW「黒い花」

・hatra―2016AW

f:id:f_f_f:20160527003153j:plain



f:id:f_f_f:20160527003202j:plain



 ハトラの今シーズンはとある合同展で見たものだ。デザイナーズ服が鮨詰めに並ぶ中ですらも、ハトラの服は浮いていた。
 トライバルな意匠は他ブランドでも多々見られるがそれとハトラを分けるものは使用の大胆さである。あたかも古代文字、というよりもゲームによくあるような古代文字を真似て作られた架空の文字のようである。文字状である、だが無論のこと無意味である。このことによって観者に対してわずかな規則性を発見させ、結果として服への注視を強いるのだ。読み取れる文字であればまた違う、集中はすぐさま文字の意味の次元に移り服は文字の意味に従属するか、または単なる服の「柄」として認識されれば視線は柄に従わせられる。無意味でありながら服への注視を促す強制性はデザイナーの長見氏が語るように「積極的に性や人格をキャンセルしようとすること」として機能している。
 造形的問題として言えば、良くも悪くもハトラの服は”内向的なオタク”を象徴するようであり、構図的に見れば中心に寄って正面的な造形なのだが、今回のこのトライバルな意匠も同様なのである。その点で常ながら一貫している。アイコニックな表現を取り入れたために”デザイナー志向”を強めているという批判は一面では正しいが、だからといってなんだというのか?この合同展で見ればすぐさま理解できよう、デザイナーズ服などというものは既にあふれかえりいかにアイコニックであろうと奇抜であろうと、着用者を没個性にする力の方こそ着用者の個性を引き立てる力よりも余り有る。いっそ提唱するなら「服に着られている」というありふれた貧しい箴言をこそむしろ言祝ぐべきだ。信条観念から先験的に導かれる「個性的」という価値より、服によって引き起こされる「没個性化」は服が服のみを求めるために起こるのだからより自律的な価値がある。

 ところで、昨年からボトムスもいくつか作られるようになったがこれは総じて怠惰の産物である。下半身は上半身と違って常に稼働し、それでいて服の引っかかる筋骨は少ないためにデザインの遊びが少ない。定番のパーカーがそうであるような意味で、「着心地」を表面的なデザインで表現することは極めて困難だろう。かといって自律的なボトムスなどというものを作れたとしたら、それではトップスと齟齬を来す。過多なトップスの分量をそのまま分裂させずにボトムスへと流すのなら、恐らくはトライバルの意匠や柄によって叶えるべきだったのではないかと思う。いくつかはたしかに柄の使われたボトムスはあるのだが、下半身に流れを導くものではなく腰部に集中させるものでしかない。より悪く言えばアートピースほどのものでしかないのではないか。方法はあるはずなのだが、その方法をとると今度は”内向的な”印象が減るために背反の解決が必要になる。勝手忖度して言えば、根本的にはデザイナー自身の身体感覚の延長から分断された先に解決策はあるのだろう。なんにせよ、今後のハトラは”一貫性”こそ注目されるはずだ。

・BALMUNG―2016AW「黒い花」

f:id:f_f_f:20160527003218j:plain


f:id:f_f_f:20160527003241j:plain


 ちょうど京都でジェンダーをテーマにしたバルムングの展示が行われていたようだが、これは見ていないながらあえて述べるならアセクシャルやノージェンダー、アンドロジーナスファッションなどという流行に流されたテーマの設定ではないか。わざわざ己が身の足まで”流され行く”必要性はないだろうと思い、触れずにおく。

 まず第一に「服に性別はあるのか?」という問いに答えるなら、否である。服というのは単なる物、布を切って貼って縫い合わせて作られた二次的な加工物である。布や糸などの単なる「物」に「性別」が差し挟まる余地などそもそもない。だが服が「物」の中でもとりわけ人の形をかたどるために男性的・女性的という比喩が盛んに用いられる。男性的という言葉は概して直線的また硬質であることを指し、女性的という言葉はその反対に曲線的また軟質であることを指す。その程度のデザインに基づく印象でしかなく、その程度のデザインに基づく印象であるからこそ”女性的”なメンズ服と”男性的”なレディース服、という次元の語りようが可能となっている。ではバルムングはどうかというとそもそもほとんど人の形をしていない。その意味で純粋に「服」であり、服でしかない。
 とはいえ服の作用に性別の識別があるのは確かである。男はレースを好まないが女はレースを好むためにレースの服を着る人間はほとんど女であり、またセーラー服は女に好まれるために女性的な服の側に分類される。もっとも――無論、歴史的に見れば17世紀の男達はレースを好み、クラシカルなsailor(船乗り)の男達はセーラー服を好む。要するに、大衆はトレンド(流行)として男性的・女性的というテイストの分類をしているに過ぎないのだが、そのようなトレンド分析に踏み入ることは大衆向けのファッション雑誌に任せておけばよい。たとえ現生人類が絶滅しようとも、造形は文化ではなく身体を基礎とするために、男性の身体に沿う造形と女性の身体に沿う造形とが、逞しい身体に沿う造形と細身に沿う造形とが――キャンバスの形態に対応する絵の具の形態が求められるように――唯一重要なのである。

 バルムングの今シーズンは今までのコレクションに比べて変わったように見える点と変わっていない点がある。前者はセーラー服や記号性であり、後者はシルエットなどの非身体的な造形である。前者は言うまでもないわかりやすいものだが、後者はわかりづらい。変異を感じることは無理からぬことだが、2015SSで登場したデニム地のコートと関連を持つ。



f:id:f_f_f:20160527003313j:plain



f:id:f_f_f:20160527003324j:plain



 バルムングの作る服を形から大別すれば、軽い素材を使ったMA-1に近い形のブルゾン、重い素材を使ったコート、オーバーシルエットのパーカー、この三種類の服しか作っていないと言える。この三種類の外形の内部にレース地やレザー、刺繍、時にはゴミ袋などの様々なバリエーションが配置される。セーラー服はこの分類からするとコートに近いが、強いて言えば既存の形に意味を与えることには成功しているだろう。だが特に見るべきは厚地のニットで作られたプルオーバーのコートである。2015SSのデニム地のコートでも同様にパイピングが使われているが、あくまでもアクセントほどの効果でしかなかったが、今回はパイピングによって身体の否定までが行われている。
 素地が分厚いために身体の凹凸、つまり筋骨は服のシルエットに埋没する。それでいてパイピングは身体に敵対する位置に配置され、素の身体は完全に否定される。特にパンツのサイドに施されたパイピングがこの否定に役立っているだろう。前述のようにハトラもオーバーシルエットに挑みながらパンツを作れていないのに対して、バルムングは難なく成功している。「積極的に性や人格をキャンセルしようとすること」という長見氏の語るテーマに相応しいのはむしろバルムングのように思える。しかしそれだけにセーラー服のようなわかりやすい記号は今回のコレクションの中では不純とも捉えられ、またインスタレーションでは特に浮いて見えた。
 ところで「浮いて見えた」といえば、インスタレーション会場は床一面にアルミホイルが敷き詰められ蛍光灯が明滅していた。あたかもアンディー・ウォーホールの「Silver Factory」を思わせたが背後の「ホワイトキューブ」と半々であり、ウォーホールの故事にはあまり則らず服は「浮いて見える」というよりも単に見づらく、見づらいものが持つ特有の神秘性――同行者は「寺の薄暗い中で見る仏像を思い出す」と語ったが――いささかartyな印象が強かった。いっそ振り切ってしまえば良いと思うが、これこそ”ファッション”なのだろうと独り言ちするばかりである。服なんて、あまり拝むものではない。


また以前したためたhatra・chloma・BALMUNGについての批評も合わせて紹介しておく。

hatra・chloma・BALMUNG ――①|愛・着る・ファッション|note(ノート) https://t.co/BE1MRgNSKG

hatra・chloma・BALMUNG ――②|愛・着る・ファッション|note(ノート) https://t.co/qPnhu5oGsq

hatra・chloma・BALMUNG ――③|『愛・着る・ファッション』|note(ノート) https://t.co/z1p2imCF6L


http://s.fashion-press.net/news/23089
http://s.fashion-press.net/collections/6114

《展評》PARISオートクチュール展 ――三菱一号館美術館

・PARIS オートクチュール

f:id:f_f_f:20160509223715j:plain

 グレやヴィオネが彫刻的というのなら、バレンシアガはどうであろう?私の使用する「彫刻」という言葉の定義は簡潔に言って「土台を必要とする表現作品」のことである。無論この「土台」をリテラルに捉えるのではなくひとつの概念として言うならば、イーゼルやディスプレイもまた然りと言えようが、服にとって限定するなら身体のことである。オートクチュールプレタポルテを強いて分ける時の意義というのは、この「土台」が単一か複数かであることのみと言ってよい。
 しかし今回のオートクチュール展で実感させられたことは、以上の問題意識は疑似問題であったということだ。簡略に、あまりにも簡略な言い方をすれば「サイジング」という程度の産業構造から導かれる必当然的かつ非美的な問題でしかない。

 真面目に見るほどに展示された数々の豪奢な衣服はまるで脱がれたスターの衣装のように見え、メットガラの控え室を覗く気分であった。特に超絶技巧的であるわけではない。素材が「最高級」なのであり、その素材のための「仕立て服」という印象であった。たった一つの土台にとって(土台が一つであるために)シンギュラリティを獲得しているわけではない。それどころかむしろ服自体の表現としてはプレタポルテに劣るものも数多い。スキャパレリよりもフラボアの方がよっぽど”アーティー”にすら感じる。

 とはいえ、中でも特異な感想を抱いた服がグレとバレンシアガであった。グレもバレンシアガも服の表面上に構造物を作るが、グレは身体に親和的な「装飾」であるのに対してバレンシアガは身体に敵対する「構築」を行っていた。最後の部屋で展示されているバレンシアガの『イヴニングドレスとペティコートのイヴニング・アンサンブル』は特に印象深い。身体にまったく無関係に構築される空間は、その過剰なクオリティーの素材によるところもあってオートクチュールだからこそなしえた一つの身体に対する(脱)シンギュラリティである。あのアンサンブルが似合うことは人の身体では有り得ないために、目の前の服がまるで服ではないかのように概念の規定を逃れる。服であるのか、それとも彫刻であるのか、恐らくは人が身に纏えば醜くもなろう、床に横たえればフラミンゴの死体に似るが、ともかく美しくあるために最低限度の空間を支持する物体さえあれば勝手に美しくなる。この服にとって人間などハンガーに等しい、という意味では身体を足蹴にする「彫刻」であると言いたい。

 この展示は服飾史的にも見所がある。コルセットの解放など知らぬ存ぜぬというようにディオールが執拗に数々のラインを提案して回帰させる様など、人間の欲望の所産こそが「モードの地獄」であると考えるに楽しい。

「マルジェラ・デュシャン批判」――コンセンサスレス・コンプレックス・コンセプチュアル・ファッション

 コンセプチュアル・アートの創始はデュシャンに由来する。クールベ以来の絵画を「網膜的」と批判したデュシャンは、既製品の便器を逆さにして展示し、芸術の成立する条件を最小限の形式で示すことにした。作品物から美的な厳めしさを丁寧に排除し、単なる物(オブジェ)であらしめることによって、その美的な意味の空白に意味深長な疑念を抱かせ、観者のコンセプション(構想力)を喚起させたのだ。有名なあの便器には元々は花が添えられるはずだったが、それでは花の美しさに観者は低俗な美的関心を寄せてしまうだろうために、花を添えるコンセプト(意図)は放棄された。パイプを取り外して有用性を無くした何の変哲もない便器、このオブジェの性質についてある批評家は「まさに、つつがない(筒がない)」とくだらない冗談で評するが、的確ではある。マルジェラもまた1997年のコレクションではあたかも未完成で袖の付いていない服、袖に腕を通せない服を発表したが、これもまた「つつがない(筒がない)」と評すべきだろうか。



f:id:f_f_f:20160507135730j:plain


 マルジェラをデュシャンになぞらえる者は多い。我が国で唯一の真っ当なファッション批評家、蘆田裕史氏はこう述べる。

マルセル・デュシャンは近代美術史のひとつの転換点となったが、それと同様にしてマルジェラは近代ファッションのあり方を更新した。”


なるほどこの見解に一旦は勝手ながら同意しよう。ラルフローレンのようなそれら「リアルクローズ」は単に俗っぽい服を称揚し客の身体を服の中で作られる身体像へと透明なまま速やかに招いてしまうクールベ的な「リアリズムの服」という意味で、もしくはゴルチェやヴィヴィアンはマネのように神話伝統へのロマンティシズムを振り切れず画面に分裂を来したように、過去へ逆進するアヴァンギャルドとして、それら偽りのアヴァンギャルドに対峙するコンテクスト(文脈)の上に、真性のアヴァンギャルドであるマルジェラが位置すると、そう解釈させてもらうことにしよう。

 詳らかな話は雑誌の誌面にて改訂増補するとして、重要なのはマルジェラがファッションの歴史上で果たした意義についてなのだ。デュシャンは『泉』が拒否された時に抗議文を自身の雑誌に掲載した。

“マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ”


マルジェラについても同様のことが言えよう。マルジェラがマルジェラ自身で服をデザインしたのかどうかは重要ではない。単にファッションの内外にあるものの中から関心をもったものを、自身のコレクション作品に選んだのだが、デュシャンと同様に、作ることには優れないが審美眼には優れたデザイナーだった。デュシャンの絵画はあたかも低質なピカソであるように、マルジェラがその造形志向をあらわにするトランプやスキーグローブ、ビンの王冠を使った作品群は低質なダダイスムすら感じさせる。ペンキ・パンツにしても「painted pants」という「パン・パン」という語感からの発想であり、モナリザの複製画にヒゲを描き足した『L.H.O.O.Q』が「Elle a chaud au cul」=「彼女のお尻が熱い」のもじりであることと同種の言葉遊びでもある。

 中でもとりわけカビドレスは、身体と切り離された「展示用ファッション」という堕落したジャンルを創設さえもした。――後続の「展示用ファッション」にはアンリアレイジが並ぶだろう。カビドレスを見る時に、我々が注視するのは表面のカビと布地でしかないが、普通の絵画が絵の具とキャンバスによって作られることと構造的に異なる。あらかじめ服という布を加工して出来上がった二次的なものの表面にカビという素材で有機的な模様が描かれるが、服が既に二次的なものであるために「カビの柄のドレス」としてしか認識されず、絵画のようにその媒質の格闘もなければイリュージョンもない。そしてコンセプト(構想)も低俗である。「カビ」もあらかじめネガティブな素材であるだけ一層先験的であり、あらかじめ約束された破壊的性格=アヴァンギャルド性を表現する図解でしかない。つまりメタルバンドのTシャツと何ら変わらないということだ。コンセプチュアル・アートへのコンプレックス(劣等感)によって作られた概念「コンセプチュアル・ファッション」にせよ、基本的にはそのコンセプト(構想)が重要であるために視覚も身体も、造形すらも作品構成上のヒエラルキーの下層、ほとんど無価値な位置に貶めるのだ。

 しかしそれでもなお、マルジェラに造形的な価値を見出すとすれば、マルジェラの審美眼によって選択=作品化されたレプリカシリーズのみであると主張するところだが――もっとも、それも単なるファッションの歴史における階段の踊り場としての役割に過ぎないが――、ここでデュシャンの例を引くならば『L.H.O.O.Q』に続いて『ヒゲを剃ったL.H.O.O.Q』という単なるモナリザの複製画そのものを作品として作ったように、過去=歴史への言及そのものを作品の動機とするならば無限の階梯=複製へと至る。マルジェラの価値をそもそも複製的であるとするならば、H&M とマルジェラのコラボほど皮肉的だが正しいものはない。蘆田裕史氏はH&Mとのコラボを批判したが、私はいっそこれこそ正しくデュシャン的だと称揚したい。

 多義的であるために混乱するマルジェラの作品解釈について、想定されるだろう5つの主義を簡単にまとめ末尾とする。私がレプリカシリーズのみにしか価値を認めない理由の理路でもある。

数字の主義になるべく基づいて各作品を点検する。

「5つの主義」
1.視覚と身体を追求する造形主義
2.クチュールに続く伝統主義
3.アプロプリエーション、サンプリングなど、引用による非造形主義
4.制作を放棄する破壊的なダダイスム
5歴史の文脈を本質とする.コンセプチュアル主義

a.シームレスパンツ
1→造形上のミニマムを追求する視覚的な表現
2→「服飾事情的」な、シームを排除したがるテーラー・クチュール好みの手仕事礼賛
3→過去のビスポークに見られるデザインの引用
4→シームを否定する
5→ある種の「無」の側賞として、ブランドという歴史的問題へのアンチテーゼとしてシームを排除することによる観念的な動機

b.スキーグローブのブルゾン
1→マテリアルの効果を利用した造形表現
2→技術の高さ、手仕事を礼賛
3→過去の服を引用し再構成する引用
4→みすぼらしさを強める効果として
5→ノーブランドなアイテムをマテリアルとして過去の歴史を表現する

c.カビドレス
1→カビによる視覚的効果を狙っている
2→一点ごとに異なるという手仕事と同種の表現
3→カビという日常的な表象を美的に展示する
4→カビによって服を破壊する
5→着用や量産を禁止し、刻一刻と変化する歴史と時間を表現する

d.レプリカシリーズ
1→過去の優れた造形の作品を選択し提示する
2→手の込んで作られていた過去の作品への敬意の表明
3→レディメイドとして引用を行う
4→自らの制作を放棄する表明
5→歴史の文脈を再構成するような視座の象徴として

e.ドールシリーズ
1→人形向けに作られた造形のおもしろさを提示する
2→仕立てるという意味では人形用だからこそ強調される
3→人形用の服であっても服であるために引用を行う
4→人間用の服を否定する
5→ファッションの歴史から取りこぼされたファッションを拾い上げる

 まず明らかに、なににでも結びつけて解釈できるがゆえに、あまりにも過剰な4のダダイスムはマルジェラには適さない。言い様を変えれば4が適しないものなどないために、余計な想定である。
次に3の引用による非造形主義だが、bとcにおいては造形的志向が明らかであるために適さないが、主義としてではなく方法論としてならば留保付きで採用可能である。2は否定こそできないが、これを採用することはマルジェラを単なるクチュールの伝統に連なるものと見なすだけになるため、これも主義としてではなくマルジェラの「趣味」としてならばとても妥当な視点である。1の視覚的・身体的な造形についてだが、aでは効果が弱く、bやトランプのベストなどの悪趣味さとコンフリクトするためにほとんどの作品に適用しづらく、適用しても押し並べて視覚的な効果が弱いという難点が付きまとう。問題は5のコンセプチュアル主義であるが、これも4と近く、なににでも結びつけ易く、事実可能であろう。4と同じく過剰さが付きまとう解釈だが4とは異なり発展的な視座をもたらしえる。

 このように点検をすると解釈としては3と5のセット「引用という方法によってファッション史とそこからこぼれてきたものへの批判的検証」こそがもっとも適切と思われる。しかしこの”間違い探し”の結果が適切であろうとも、クチュール伝統主義へ向けられた懐古的趣味は付きまとい、それでいて造形的問題は蔑ろにされているということは留意されるべきである。そしてこの留意を認めながら上記a,b,c,d,eや数ある作品群を俯瞰するならば、唯一、レプリカシリーズのみが伝統主義から離反し良い趣味のものを視覚的に選択していることに気づくだろう。それゆえに私はレプリカシリーズのみを評価する。
 デュシャンに並べてレディメイド的な評価を口ずさむ者がいようと、アートとしての価値すらあるかのように評価する者がいようと、ハイデガーの如く時間の哲学を読み込む哲学者がいようと、ましてや「匿名性」が云々などとあたかもエディ・スリマンに向かって「少年性とロック」が云々とコピーライトに過ぎないものを口真似してありがたいマントラのように唱え続けるものがいようと、彼らのような美術的または哲学的比喩は常に外在的なコンセンサス(総意)に頼り、ファッションの内部にあるべきはずの内在的なコンセンサス(歴史)を含まない。現代アートにおいてコンセプチュアル・アート有意義だったことは認めるが、それは世に劣悪なモダニズム・アートが蔓延するほどモダニズムが硬直化したゆえの反省的ポスト・モダニズムであり、ファッションには未だそこまで何かが蔓延できるほどの硬直化=理論化すらないにも関わらず概念だけを賢しらに輸入するのなら”Fashionable nonsense”(知の欺瞞)の誹りを免れない。

ファッションのおわり、黙示録前史

「ファッション」の歴史はたかだか半世紀である。アートは二世紀、文学はそれより一世紀ほど古い。——これは私の独断である。


ファッションの歴史を記述する時に、オートクチュール以前と以後で分ける見方がある。画家の地位は元々単なる肖像画や宗教画を描くだけの職人であったことと同じく、ファッションデザイナーというのも元々は豪華絢爛な誂え服とその表現を支えるための技術の研鑽を行う職人、もちろんまさにその時代には「ファッションデザイナー」という呼び名すら存在していないが、スポンサーに請われて作るだけの職業であった。画家がこの職人芸としての評価から離れて芸術家として自律的な課題による作品に取り組むようになったのは、「絵画そのもの」または「画家そのもの」が評価の対象となり(『芸術家列伝』など)、またその後に安価な絵の具やカメラの発明で職人芸の価値が著しく毀損され、物理的価値から離れた芸術的価値のための技芸として発展したという歴史がある。

ファッションも元は、諸説あるが儀礼用としてはじまったとして、同様に産業革命とともに工場で作られる既製服の技術力があがり、誂えものの物理的価値が次第に減少していったのだが、ある意味では絵画にとってのカメラのような安直な機械の発明が遅れに遅れようやく最近になって3Dプリンターが出てきた程度であることがファッションの悲劇である。強いてわずかばかりでも歴史上記述する価値がある事件といえば、ストレッチ素材の発明くらいだろう。それでもイッセイミヤケのA-POCなどは別としても、未だにスーツなんて骨董品の形を安く形成するための低級な技術と見なされている。


しかし服と絵画との歴史を比較するとき注意すべきは、技術発展という目に見えてわかりやすい話ではない。比較すべきはむしろ「そのものの価値」というのが歴史上、ファッションには生まれていないということだ。もちろんヴィンテージやよほどのマスターピースは、好事家が自らのワードローブに作品をかき集め擬似的コレクターの役割を果たしているが、それはほとんど資料価値による骨董品収集だ。これらのものと芸術作品との違いを改めてここに定義するなら、つまり、セザンヌからピカソへと至るまでの自律的な課題があってその解決方法が見いだせるような作品のこと、と言える。単なる事実が羅列された流れを歴史と呼ぶのではなく、歴史というものをどのように見ることができるのかという「歴史観」の問題であり、その歴史観の記述に役立つ作品である、ということだ。ファッションにだってもちろん歴史はある。しかし歴史観は存在しない。全ての問題はここに起因する。アントワープ・シックスに、印象派のような課題とその解決への意識が共有されていたと見なすことは誰にも不可能である。

服と絵画の最も異なる点が「アート」ではないということだ。服の価値は、歴史や批評の領域内には存在せず、個々人の趣味の領域内にだけ存在している。演繹的な断言をすれば、「3Dプリンター」などの技術革新は大した問題ではない。ファッションには大した問題というのが一つも存在しないために、大した問題にはなりようもない。

絵画と違って「そのものの価値」というのが個人の趣味に依存するためだ。景色の再現が課題であるような絵画はカメラによって死を迎えたが、ファッションにそのような共有された課題を見出すことはほとんどできない、それゆえに、逆にいえば、死に対して抵抗的な形で共有できる課題もないということであり、すべてが死ぬ。
完璧なフィッティングのスーツがいかに安価で作られようとハウス・スタイルは生き残るだろう——ただし、それは同人誌の人気サークル程度の規模として、様相として、オタク的ファンと作家の小さなコミュニティーとして、彼らの仕立てる優美なハウス・スタイルは素人の悪夢的デザインと並列され、死につつ生ける亡者となる。また何世紀か前の再現不可能とされるオートクチュールゴッホの『ひまわり』の如く乱造されるだろう。素晴らしいことに、絵画はいかに粗製乱造されようとそれでも作家自体の価値が保たれているが、ファッションにおいては親近感とシンパシーだけが唯一のクライテリアとなりきっとコミケのような地獄絵図が現出するだろう。


誰でも表現者になれる幻想の世界。それは「誰でも子どもの運動会はおもしろい、友人の演劇は観に行く、同僚のカラオケは褒める」程度のものに堕していく——否、ファッションは元からそんなものではないか?


ファッションという服を使った表現作品において内在的な課題は存在しないのだが、無論これこそ逆説的な課題であり、つまりファッションにとっての唯一なる課題は「そのものの価値」の不在という基礎的問題なのである。

「どうして変な服が必要なの?」~ポール・スミスとマティス、剛力彩芽~


f:id:f_f_f:20160405024818j:plain


 ファッションオタクとそうでない一般人の感覚では「デザイナー」が何のためにいるのか、その答えは全く違うと思います。一般人からしたら「良い服」とはアローズ、ビームスロンハーマン、あるいはファストファッションからマルイ系までが評価の対象でしょう。ベイレンドンクやらラフなんて評価どころか理解すらしがたいものなはずです。

「ちょっと私ファッション学んじゃおっかなぁ~(音符)」なんて人が試しにパリ・コレクションを見ると恐らく絶望するでしょう。こいつら意味わからん、と。たぶんそういう体験はファオタの方々にも一度はあったかと思います。わけわからんデザイナーがわけわからんデザインの服を作って、わけわからんけれど賞賛されてるし、めっちゃ高い。
 ファオタは全てのブランドの価値がわかるわけではないものの、そんな未曾有なカオスの中に「あ、これちょっと良いかも……」みたいに大なり小なりビビッと来るものがあった人なのかなと思います。そしてそんな取っ掛かりから自分のアンテナを伸ばしていって立派なファオタに成長していくのですが、それでもやっぱり相変わらず「わけわからん服」は常にあるもので(僕にもいっぱいあります)、大人な折り合いをつけながら自分の世界把握の内側にあるものを、好んで選び取っていくのです。

 こうして深まるファオタ的なファッションの認識は、一般人と簡単には共有できなくなっていきます。ファオタが自慢のクローゼットを開けばゲストは絶句するわけです。

僕はこうしたオタク的な「この良さがわかるだろ?」的なノリが嫌いです。言語化する努力を持たないことは肯定されるべきリーズンを持たないことと同じです。

ところで、こんな中途半端な服オタ"だけ"が嫌う稀有なブランドがあります。『ポールスミス 』です。

パンピー「カラフルなストライプがおしゃれ♡」

上級服オタ「マルイに入ってるブランドで唯一ポールスミスだけがジョンロブとコラボしている、さすが大英帝国勲章だ……」

だというのに下級服オタはストライプを見るや否や親の仇のように叩きだすわけです。
でもそれってブランドタグを肯定することを180度裏返して否定の立場に立ってるだけで、やっぱりブランドタグに絡め取られてるだけじゃね?
ストライプだからって批判してるやつら、ゲルハルトリヒターも批判するわけ?

ポールスミスというブランドはモードではなく、かといってラグジュアリーでもなく、エレガンスでも、ロックでもありません。天気も頭もカラッとしたイタリア人みたいにマローネ・エ・アズーロを生み出せない、万年曇天の中で陰鬱に暮らす不器用なイギリス人のマゾヒスティックかつシニカルなオシャレ着です。

モードの服を作ることは簡単で、服のクラシックを再解釈(ダダイズム)すればいいだけですが、ポールスミスはそうではなく、あくまでも服のクラシックの範囲内で再配置(デザイン)をしているのです。それをやってしまったらモードになってしまう、という境界線、限界の中でどれだけヒネクレられるか、そんな王室伝統大好きなのにすぐジョークやパロディのネタにしてしまうちょっと照れ屋でアンビバレンツなイギリス人の心意気が見えてきませんか?

表現物には常にフレームがあります。絵画であれば額縁、彫刻なら土台、映画ならスクリーン、漫画ならコマ割り、そして服ならクラシック。

絵画において特にこのフレームに意識的なのはマティスでしょう。どんなものが描かれようと絵画そのものは既に静物です。しかしそれであってもマティスの革命的なところは枠内においてすら枠からはみ出ようとするほどの遠心力的な色の再配置、固定的にも関わらず内側で作られる動的なリズム。モダニズムとはフレームとの葛藤です。マティスはフレームを壊して彼岸に行ってしまうことなくフレームの中で格闘しているのです。しかしそんなことフレーム内で安定しているフツウの絵画を十分に見慣れて目が肥えてる熟達でないと何がすごいのかわからないでしょう。かといって何もわからないパンピーからすればただのオシャレな絵画です。ポールスミスと同じですね。絵画における最大の上級者向け、それがマティスです。

中級者にはわからないが、上級者にだけわかる女優といえば、画面のフレームとグラップラー刃牙をやってる剛力彩芽がいます。剛力ダンスしている彼女は画面というフレームの中でまるでマティス絵画のようなリズムを作り出しています。それだから矩形の写真で見ると写真そのもののバランスを脅かし、ただのアイドルやら女優やらにしか見慣れていない半端者にはブサイクに見えてしまうのでしょう。またパンピーからすればただのアイドル女優。しかし上級者からすればもっと恐ろしい、人間の顔をした映像「カット」そのものに見えるのです。特に動画で見ればわかることですが、カットの流れをコントロールする力点は常に剛力彩芽です。カメラが剛力彩芽を捉えるのではない、剛力彩芽がカメラを捉えているのです。

ポールスミスマティス剛力彩芽はたしかに一見したら「変」に映るかもしれませんが、よく見れば決してフレームを壊さずにフレームの中で格闘を繰り広げる上級者向けの表現物なのです。静止した空間内でいかに動きを作るかという課題への解答として、奇妙にも映るヒネリを加えた表現に至ったのです。フレームそのものが見えるくらい上級者になった時にこそ初めてこの良さが理解できます。なのに半端なやつらはブサイクだのゴリ押しだのと偏屈こじらせてdisってればそれで何か通ぶれると勘違いしているわけですよ。表現物のフレームが見えていない人間は、自分の認識のフレームすら見えていません。剛力彩芽の名曲『友達より大事な人』は友達というテーマでまさにこのフレーム内での格闘を歌っています。

剛力 彩芽 『友達より大事な人』 - YouTube
http://m.youtube.com/watch?v=QR6Gj0MKcew

「ねえ きみはもう友達じゃない」

「友達より大事な人」

「いつまでもそばにいてね My friend」


「友達」というフレーム内でありながら、その境界線を問いただすこと、それでいてフレームを破壊してしまうのではなくやっぱ結局はフレーム内で格闘すること、ポールスミスのクリエイションとはまさにこのようなフレームについての内在的な問いかけなのです。

《書評》SUKEBENINGEN『 ハイコンテクストなノームコア』の蛇足

「ハイコンテクストなノームコア」の補足
https://note.mu/sukebeningen


ずいぶんと散文的なため、要約はせず逐次章ごとの引用をして評を述べる。


全4章

□ハイコンテクストなノームコアまでのいきさつ

村上隆

□マルジェラ

□ハイコンテクストなノームコアな方法になる理由



△『ハイコンテクスト』の定義がハイコンテクストすぎる

ジョン・ガリアーノアレキサンダー・マックイーンなどテーラーやクチュールのテクニックでイリュージョンのエクストリームをするのが『近代』、それらへのカウンターなコムデギャルソンやマルタン・マルジェラなどが『現代』、そしてその次のポストマルジェラ的なものとして『ハイコンテクスト』を定義した”

まず細かな話だが、アートを学んだ者からすれば「イリュージョン」という語はグリーンバーグ由来の意味のそれが思い浮かぶが、もちろんSUKEBENINGENの使用法はこれに則るものではない。僕は最大限好意的に理解して「テクニックによって身体というキャンバスに向かって絵の具のように服を盛りつけること」と比喩的に捉えている。

細かな話はここまでで、重要な点がある。SUKEBENINGENの提出する概念『ハイコンテクスト』を、表層的な『近代』の先にある表象的な『現代』の、その先にあるものだと定義していることだ。それでは具体的にどういうものが『ハイコンテクスト』となるのか、次節に書いてあるので抜き出す。


“「ハイコンテクストというのは具体的にはどういうスタイルなので?」という問いに「例えばアークテリクスのゴアテックスのアウターにバンドオブアウトサイダースの無地なオックスフォードのシャツとジョンスメドレーのニット、RRLのデニムにニューバランスなど…」といちいち(自分が実際に着ている服などを例にして)説明していたが、ノームコアという、そういったニュアンスを端的に捕まえられるジャストな言葉が出てきた。だから(どんなスタイルなのですか?という問いに)「それはハイコンテクストなノームコアです」と一言で言い切れるようになった。”

たしかに具体的だ。だがより正確に言えば「具体的」というよりずいぶん「リテラル」だ。着こなしのレベルでしかない。判定のクライテリアが不在である。もちろんファッションオタク的 ——当然一部の、にすぎないが—— にはモダンデザインであり、バウハウス的でもあり、ド定番の「正解」なアイテムであるが、そのコンセンサスに頼ることは危険を孕む。危険とはつまり、『男のマジメ服』というか『ビギン君』と混同しないで済む方法がセットでなければやはり脱オタ指南の延長ではないか、ということだ。元より脱オタが張り切りすぎて中二病モードファッションに走る姿への揶揄というコマーシャルな一面がSUKEBENINGENのブログにはあったが、コマーシャルとアカデミズムを分けて考えることを提唱する本人がアカデミズムなきコマーシャルな言説を撒き散らしてしまう危険がある。「それはハイコンテクストなノームコアです」と一言で言い切れる程度の強度しかないのなら、ニュアンスを捕まえるどころかむしろニュアンスに引っ張られすぎているのではないか。


村上隆芸人のすべらない話

“>「例えばルーブルモナリザの隣に何を置けば一番貶められるか?」から逆算してもいい。ウォーホルのキャンベル缶が素晴らしいのはそれを一番貶めるからだ。

これには続きがあった。「〜さらにウォーホルのキャンベル缶の隣に何を置けば貶められるか?その点でいえば、村上隆ヒロポンちゃん(露悪的にディフォルメされた巨乳のアニメ美少女が自らの母乳で縄跳びしてる実寸大フィギュア)は戦略として正しい」と書いた。”

アートの話でいつも村上隆を賛美するのって、とりあえずやっとけば取れ高OKみたいな、テッパンネタ?アカデミズム的には、名前を挙げるべきはコスースやソル・ルウィットだろう。ウォーホルが示したのはあくまでもキャンベル缶のおもしろさまでで、コスースらはそこから更に進み言語的問題へと還元した。熱いポップ・アートから冷たいコンセプチュアル・アートの始まりだ。ウォーホルが「芸術のネタ化」なら、芸術創作行為そのものをラディカルかつシニカルに批判した彼らは「芸術のメタ化」だ。『制作行為に意味はない。アイディアが芸術の作り手となる。』


“「あなたの論法だと村上隆オリエンタリズムの芸者ではないのか?矛盾するのではないか?」という反論にも答えなければならない。話がややこしくなるな、と思い、村上隆の記述に関してはバッサリと切った。

まず村上隆オリエンタリズムな芸者では無い。”


“それにそもそもオリエンタリズムは非アカデミックな作家がやるもの、村上はアカデミックの人。あくまでネタだ。”


これもまた村上隆に頼ったいつものテッパンネタだ。いったいこの”アカデミック”の定義はなんなのだろうか、皆目見当がつかない。日本で(世界的に見ても、と評されることもある)アカデミックな作家というと岡崎乾二郎がいるし、本気でまったく面白くない彼のマンガの方が落差の位置エネルギーもある。アカデミック作家の筆頭たる岡崎が描いて、アカデミズムの批評家たちがまったくくだらないと一笑に付した例のアレだ。また通常、アートにおけるアカデミズム派というと美学系もしくはフォーマリズム系を指すのではないか?村上隆はそういう意味ではまったくアカデミズムではない。武蔵野美術と美術手帖の違いと言えばわかりやすいだろう。あるいはシンディ・シャーマン森村泰昌を比較して、とある有名アカデミックな批評家は一方を『吉本芸人』だと皮肉ったわけだが、無論、どちらのことかはわかるはずだ。



△マルジェラ÷2

“マルジェラのレプリカシリーズは〔中略〕表層的な新しさというよりファッションのモードという領域の概念そのものを拡張している(コムデギャルソンまでは表層の拡張どまり)。

アヴァンギャルドはカウンターが目的なので日常生活で着る服としてはバッドデザインになる。意義が重要なので。よりアヴァンギャルドをエクストリームすればするほど日常服としては齟齬っていく。コムデギャルソンはコレクションで発表した服は全て商品化してたが今はもうしていない〔中略〕

マルジェラはまず良きリアルクローズがあり、それをいかに先鋭的にみせるか、だと思う。”


“マルジェラ以外のアヴァンギャルドと言われるデザイナーらの「より過激な事をしなければならない」「リアルクローズは怠惰や迎合であると低くみる」、そういったクリエイションへの強迫観念はアートコンプレックスの裏返しである。ベースにアカデミックが無いので恐れから、クリエイションをバンジージャンプの様なものに見立てる。”


マルジェラはなんとも割り切れないデザイナーである。例えば古着の引用は優れてレディメイド的でありかつフォーマリズム的にも解釈できる。リアルクローズをたしかに作ったが、トランプや王冠でできた服なんてギャルソン並みにバッド・テイストな代物だ。アテリエや1LDKの人間すらそんなもの着るわけないだろう。(もっとも、これをレディメイド的と擁護したり、あるいは服作りの過程いわば「時間性」を表現するメタなものと批評する者もいるが、それならば「リアルクローズ」として評価するSUKEBENINGENと彼らを比べるとやはりSUKEBENINGENのリテラルさばかりが目立つ)

ギャルソンは四本も袖のある服を作って、マルジェラはシームのないパンツを作った。「マルジェラは服の構造をミニマルに問い直した」と言えるが、角度を変えた相似形として「ギャルソンはマキシマムに服の構造を問い直した」とも言えるだろう。ミニマルといえば聞こえはいいが、表層の問題を問い直すという意味ではどちらも等価だ。偉大なものは多義的である。マルジェラは多義的であるがゆえに、その作品の何を評価するかで批評のポジションが決まる。僕はそのためにいっそ、傑作主義者になるべきだとすら提唱する。

ギャルソンであればコレクションアイテムは最低でも白シャツは最高だ。マルジェラであればコンセプチュアル系は最低だがレプリカ系は最高だ。ピカソの『ゲルニカ』は最低だが『アヴィニヨンの娘たち』は最高だ。こうすれば斯くの如く、僕の立場はご明察だ。


△ハイコンプレックスなノームコアになる理由


“教養のない人にはただのローファイにしか見えないが、教養がある人にはそのローファイらの(意図的なルールに則った)セレクトやミックスから裏にあるハイファイなイデオロギーが読み取れる。それがハイコンテクストなローファイであると理解できる。”


“「ファッションもアカデミックデザインである」と世の中に認知させる、それが一生をかけて三宅一生が実現させたテーマだった。

だが実際にやった方法は「アカデミックデザインをファッションに持ち込むことは可能である」であり、既存のファッションのやり方の延長ではアカデミックデザインにはならない、と三宅一生自身が証明した訳だ。〔中略〕

だから「ファッションはアートである」も同じく、美大でアート(現代アート)を学びファッションに持ち込む事になる。既存のファッションのやり方の延長ではなく(だからもし「アートな服をやるなら美大で現代アートを学べ」に反論するなら三宅一生も否定すべきだし、三宅一生を担保にしてる川久保玲山本耀司、さらにそのフォロワーあたりまで全部筋を通して否定すべき。日本のアヴァンギャルドと言われるようなデザイナーはぜんぶ三宅一生のアカデミズムにぶら下がってるのだから)。”


巻頭から間二章分の蛇足を挟んで最終章、問題の「ハイコンテクストなノームコア」についての説明である。だが、著しく残念なのは上記引用の通り、着こなしのリテラルなレベルの語りである。しかし、着こなしのレベルでの語りしかできないのはなぜか?

答えは単純なように思われる。「ファッションにはモードなど存在しない」ためだ。白いカラスは存在しない、街に黒いカラス族がいるだけだ。確固たるモードの体系など存在したことがない。モードもアンチ・モードも『モードの地獄』に捕らわれ、モードを恐れすぎている。執拗にアンチ・モード(アンチ・アートコンプ)を語ることは、モード(アートコンプ)を克服するためのバンジージャンプ(成人の儀)にすら見える。


以下は完全に蛇足である。

ちなみに僕はイッセイミヤケを物心がついた時から否定している。肯定したことなど一度もない。イッセイミヤケの服はA-POCなどとてもプロダクト的だと思うが、それは要するに非身体的という意味だと僕は捉えている。誰でも着られることで「サイジング」の問題を解決したが、そのような服飾事情的テクニックなんかより、ユニクロが各サイズを大量生産することの方がずっと「プロダクト的」である。誰であってもユニクロに行けばまともな服を着られる。そしてA-POCより安くオシャレで画一的である。『イッセイミヤケ』とは、単なる疑似問題のひとつでしかない。