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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















《書評》『ハイコンテクストなノームコア』は、じつはSUKEBENINGENの騙りである。

ネット・ファッション批評家SUKEBENINGEN氏の書いたとあるコラムが雑誌『FREE MAGAZINE』に掲載されている。私は氏の古参ファンであるため、この見開き2ページ足らずのコラムのためだけにわざわざ渋谷のCANDYというショップにまで取りに行った。Gドラゴンlikeなスタッフが一階でたむろし、二階ではタロウホリウチが鎮座ましまし、三階にはビレバン雑貨がひしめき、なんとも不思議なショップだった。戸惑いつつ愛想の良さそうなGドラゴンに何も買い物はしないが『FREE MAGAZINE』だけが欲しい、という旨を伝えると丁寧にショッパーにまで入れて持ってきてくれた。素晴らしいショップだと思う。この場を借りて改めて謝辞を述べたい。


さて、本題である。


「アートのルールとファッションのルールは違う」。これはSUKEBENINGEN氏の一貫した主張であり、まったく正しい。異論の余地も議論の余地もない。ファッションのテクニックというのは元来「服の表層」の問題が全てであり、これを"イリュージョン"を実現することと比喩的に呼んでもよい。対して、(現代)アートのルールはイリュージョンのためのテクニック=ローコンテクストで競うことを骨董扱いし、そのテクニックがなぜアートたり得る(た)のか、という風なより抽象的なアート成立の概念からメタ的に問い直すことをアートの条件としている。


ローコンテクストからハイコンテクストへ。こうした"イリュージョン"的なテクニックから離れ近代以降は記号の価値が弥増すことになるのはストリート文化において既に散見されてきた通りだろう。言うなれば戦場が「服の表面」というよりも「服の表象」へと、ルールが改訂されたのだとまとめても概ね間違いではなかろう。SUKEBENINGEN氏が具体例としてあげるようにマルジェラはまさに表面を否定して表象へと移行する「エポックメイキング」だった。アンチSUKEBENINGENのファッション批評家、蘆田氏も同様にマルジェラをひとつの転換点として挙げているように、史観のコンセンサスとして前提におかれなければならない。


マルジェラ以前は「服の表層」のローコンテクストで争うことがルールだったが、マルジェラ以降は「服の表象」というハイコンテクストで争うことになった。表象にとって表層は単なるイメージの媒介となる素材=メディウムでしかない。よって表象にとっては表層などなんでもよく、まったく新しくないもののサンプリングだろうとアプロプリエーションだろうと表象の新しささえあれば許されるのだ。古着をそのままコレクションに並べたマルジェラはこのメソッドの一例だろう。


以上のように一部を勝手に補完しながらSUKEBENINGEN氏の論旨をまとめてみたが、概ね同意してくれるはずだ。しかし問題点と認識の誤りを指摘しておかなければならない。



細かなことだが「アートやアカデミックデザインでは既にサンプリングが主流である。」という主張はいささか古い。椹木野衣の著作に似た主張はたしかにあったが、主流であった時期などとっくに終わっている。もはやアートにそのような"主流"などという流れはほとんど存在していない。(付言するなら、アンダーカバーをノイズから批評する論考も世の中ではずいぶん前に出版されている)


また同時に指摘しなければいけないことだが、アートのルールなどというのもとっくに散逸し、独占的なルールなどない。現代アートはそこまで徹底的にマーケットへと"解放"されているのが実状だ。例えば村上隆がペテン師として批判するようなポルケやリヒターはなんだかんだ立派に活躍しているし、絵画も二度死ぬどころか何度も死んでは復活し復権されてきた。アートのルールというのを確定的に求めたある批評家はポロックからリキテンシュタインまではその「ストローク」で評価することができても、当時大攻勢のハイパーリアリズムのような聳え立つクソの前に跪いて筆を折ったりもした。現代アートの内部で最もアカデミズムとして有名なとある学派はウォーホルの使用する既製品は既製品のフォルムの美しさを抽出していると評価し、かたくなにポップアートの記号的挑発には屈しない姿勢を見せたりもした。今日でも、関係性の美学なんて体系的な議論がないまま十数年間ずっとホットな議題である。ざっと見てもあまりにも混沌としているアートの動きを十把一絡げに「アートのルール」とまとめあげるならば、そのようなものは無規定・無内容に等しい。(また付言するなら「アートのルール」などというものよりよっぽどアカデミックで厳正な「美学」をなぜアート側は無視し、SUKEBENINGENもまた無視しているのかは根が深い)


あるいは、少しひねってコンセプチュアル・アート特有の「批評性」というダイナミックな定義にしてみても、その批評性はファッションに内在するものではないために借りてきたものを当てはめているだけで、内容は余りにアブストラクトである。氏はキッチュアヴァンギャルドな服=モードと敵対する形で新しい概念「ハイコンテクストノームコア」を提示してみせるが、そもそも十分にモード(ファッション)の理論が打ち立てられたことが有史以来一度としてないために、何への批評性なのか、どのようなものと敵対しているのかがわからないのである。唐突に着こなしのレベルでファッションが語られるために「いかにもモードらしいファッションをすべきでない」という程度の、脱オタ指南の延長的な主張に落ちてしまってはいやしないか。全ての服がフラットであるならば「いかにもモード」の装いをすることもまた「デザイナーのイデオロギーやコンセプトを極力無視する」ことに当てはまることもありえてしまうのは当然のこととして、いったい誰が、何を、どのようにして「無効化」していると判断可能なのだろうか?"アヴァンギャルド"と"リアルクローズ"との境界は—— 何度も言うがファッションの理論が有史以来打ち立てられたことがないことと同じく—— 一度も定義されていないため甚だ曖昧である。


そして美術史のおさらいを念のため最後に。「ヨーロッパからアメリカがアートの覇権を奪ったような方法」は、ウォーホルがルーブルモナリザを貶めるためではなく、クリントンがアートマーケットに国策として金をバラまき、伴って批評家がより強力な理論を打ち立てヨーロッパから絵画をアメリカの美術館に引っ張ってきたからだ。皮肉だが、政治家が金を出すことほど"ハイ"な方法はないだろう。


さて、この書評はひとつの疑惑をもって結びたい。

同じような欲望を持つ非アート、非アカデミズムのワナビーらのポピュラリティ稼ぎをするSUKEBENINGENこそが真のアート・コンプレックスかつワナビーであり、糾弾されなければならないのではないか?自分が名誉アート側からファッションに向かって蜘蛛の糸を垂らしているといったつもりなのだろうか?

それはなんとも"ハイ"(ガンギマリ)な方法だ。"ハイコンテクストノームコア"(複雑なだけで凡庸極まる)。

「LIPO6」――アンダーグラウンド・オシャレダイエット

こんばんは。

カルフォルニア在住のボディビルダーに魂を売りました。

現在ダイエット生活2週間目突入、10日間で減った体重は3キロほど。

そんな僕のハーコーなダイエット法についてまとめてみたいと思います。

 

@ カロリー制限

@ ダイエットサプリ

 

やることはこの二つのみです。本当は運動もした方が良いのでしょうけど、めんどくさい。

汗をかいて洗濯物を増やすのもめんどくさい。

というか運動なんかに貴重な時間をとられてたまるかよ。

忙しい都会派オシャレピープルは効率重視、土くさいダイエットなどしてられません。

 

「食べず動かず金もかけない、耐えるだけダイエット」

 

以上が最重要コンセプトです。

あと苦しいのイヤなので天井のシミを数えている間に終わるくらいの短期間を想定しています。

 

1.カロリー制限

「痩せる」とは煎じ詰めれば消費カロリーが摂取カロリーを上回ることです。

どうすれば前者を増やし、後者を減らせるかという細かなテクニックはあれど基本的にはこの差を大きくすることがダイエットです。

でも前述の通りで運動はめんどくさい。なら摂取を減らせばよかろうもん。

メリットは以下の通り。

@ 食費がかからない

@ 時間がかからない

費用のコスト+時間のコストをなるべくかけず「ハイ・コスパ」を目指します。

実践編

@ 朝飯は食べるな

朝は抜いても1日のクオリティーに大して影響はありません。どうせ頭が働き出すのは午後から、それまで空腹であろうと問題なし。後述のサプリでカフェインとっておけば余裕で乗り切れます。僕の場合は、食べたい日は鶏ハムを100g程度、または味噌汁を食べてます(カロリー200未満に)。

@ 昼飯は炭水化物抜き

昼はさすがに何か食べないとスタミナ切れを起こします。だけれども現下では血糖値の低い体に糖(炭水化物)のごほうびはドープすぎる、間違いなく眠気もセットでやってきます。サラダ+何か(冷や奴とか納豆とかタンパク質多めのもの)がベスト。ちなみにドレッシングはダボダボかけてます。都会っ子としては素のままのサラダなんてびんぼっちい真似したくないですね。

@ 晩飯はカロリー逆算して自由に

(1000kcal~1300kcal) 引く (朝昼で摂取したカロリー)= (晩飯で食べていいカロリー)

以上が晩飯の条件です。僕は好きなの食べてます。ケーキとかチョコとかステーキとか。ここ一週間はオクラカレーです。あとお酒も普通に飲んでます。でも朝昼食べちゃった日は炭酸水だけ飲んでフィニッシュ。

反省点

こんな生活を1週間ほどやってみてですが、なんとかなるもんです。

むしろ現代の豊かさにあふれた生ぬるい生活よりもアグレッシブな生き方をできたと思います。想像以上のつらさ、というのは起こりませんでした。

カフェインで神経が昂ぶってさえいれば多少のめまい、飢餓感、貧血なんてなんのその。

とにかく、耐えろ!

 

 

2.ダイエットサプリ

さて、ここからがみんな大好きカラダニイイお薬についてです。

カルフォルニア在住のボディビルダーが言ってました。

LIPO6がよかろう、と。

 

http://www.powerbody.fr/site/medias/lipo6black_01.jpg

 

ダイエットサプリのカテゴリー

ダイエットの効率をよくして短期決戦。

忙しいアーバンカルチャーピーポーはなにごとも効率重視なのです。

サプリを使ってとっととケリをつけるのが、われわれモダニストの流儀でしょう。

ということで色々と調べてきたのでまとめます。

 

ダイエットサプリには大きく分けてふたつのカテゴリーがあるそうです。

@ サーモジェニック(発熱性)

@ リポトロピック(脂肪親和性)

脂肪燃焼の効率に関わるのが前者です。後者は脂肪を付きづらくするためのものです。

ここはオシャレファッションブログなので、前者をオシャレ用、後者をデブ用と呼びたいと思います。

 当然前者にしか興味はありません。

そしてサーモジェニック系の作用というのは主に、体温の上昇で基礎代謝UP、脂肪をエネルギーに変えやすく、甲状腺の働きを活発に、といったものがあります。

甲状腺をいじる(商品名:アニマルカット)とかさすがにやばそうなので、基礎代謝UPと脂肪燃焼系で考えていました。

 

もちろんサプリなんかに大した効果は期待していませんので、メインはあくまでカロリー制限、その補助になるものを。あくまで補助なので過大なうたい文句のものはスルー、効果がやばすぎるやつもスルー、あと値段が高いのもスルー。そんなこんなで色々と探していました。

 

LIPO6について

探していたところカルフォルニア在住のボディビルダーが推薦する、とあるサプリが僕の条件にベストマッチのようでした。

 

@ カロリー制限の停滞期を越えろ!

@ カフェインで騙しきれ!

@ 意識を高くしてプラセボも狙え!

@ ボトルがオシャレ!

 

その名も――

 

"LIPO 6 BLACK"!!

--THE END OF THE LINE UNDERGROUND FAT DESTROYER--

(※本当にこう書いてある)

 

ググってみた情報をとりあえずまとめると↓↓

 

@ わりと老舗メーカーらしい

@ ボディビルダーの間ではよく使われるらしい

@ 受賞歴 ‘Fat-Loss Product of the Year’ in 2005, 2006, 2007,2008

@ ヨヒンビンでビンビン(YABAI)

@ 3錠(1回分)でカフェイン200mg(コーヒー2~3杯分)

@ 激安(他のサプリ同量と比べて1000円~3000円くらい安い)

@ 今のところ数年間は危険という報告なし(同種のものは報告あり)

@ ほとんどECAスタックみたいなもの(SUPER YABAI)

 

基本情報はこちら参照↓

http://jp.bodybuilding.com/store/nutrex/lipo6.html?_requestid=190814

 調べたところ絶食系ダイエットとは特に相性がよさそうでした。

特に含有成分「ヨヒンビン」が効果的なようです。

脂肪燃焼にはアクセルとブレーキになるアドレナリンが関係していて、ヨヒンビンは後者のブレーキがかかるのを邪魔するそうです。

なので減りづらい部位、太ももや腹まわりが減りやすくなるとか。

そしてなにより絶食系ダイエット最大の難敵「停滞期」も突破できるようになるとか。

 

あとダイエットサプリの世界で最強と名高い「ECAスタック」と呼ばれているものがあります。しかしこちらは規制中です。さすがにヤバすぎて死者が出てます。

そもそもECAとは何か、エフェドリン、カフェイン、アスピリンのことです。

エフェドリンとカフェインを合わせて飲むとヤバい効き目が発生し、更にアスピリンもプラスすると体がカフェインに慣れてしまうことなく効き目が長期間続くというサプリでした。

そしてヨヒンビンは、このエフェドリンと似たような働きがあるそうです。なのでLIPO6はECAスタックのマイルド版……と考えていいのではないでしょうか。

つまり「ちょっとYABAI」ということですかね!

ちなみにヨヒンビンは摂れば摂るほど効果がでるというものではないそうなので、他のヨヒンビン配合サプリよりも少量(3mg)しか入ってないLIPO6がちょうどいいような気がしました。これもエフェドリンと同じ特性ですね。摂りすぎ、ダメ絶対。

実践編

使ってみてよかった点です。

@ カフェインドバドバで眠気なし

@ 空腹感はふっとぶ

@ 体がほてって汗がよくでる

@ カフェイン切れの疲労感も思ったよりなし

@ イライラも起こっていない

@ ヨヒンビンでビンビン

 

対してデメリットもあります。

@ 眠りが浅く

@ 食欲なくなりすぎて摂食障害と隣り合わせな感覚

@ 膨満感(特に初回は悶絶するレベル)

@ 汗からあぶらっぽいにおい

@ 電車にのってるとボーっとする

@ 静かな音楽が聴けなくなった

@ ヨヒンビンでビンビン

 

他の人の使用報告例とだいたい一致するものでした。

想像以上にやばいものではなく、カロリー制限ダイエットを内面から補助してくれるサプリとして考えるとかなり優秀なのではないかと思います。

特に空腹を抑える役割はかなりのものです。

この一点だけでもオススメできますね。

 

こまかな話

省いてしまっていたところを書き出しておきます。

@ 毎食後のビタミン・ミネラルのサプリ、少し多めに摂ってる

@ ついでにCLAも摂ってる、飲み合わせは大丈夫なよう

@ あと脂肪燃焼効果期待してマカのサプリも摂ってる

@ 会食するときLIPO6は飲めないのでその時用の代替サプリあり(後述)

@ 酒とタバコは全然問題なし

@ サプリ選びに重要なのはカプセル数、多いほど1粒単位の調整ができるため

@ 1日6粒も飲むLIPO6 BLACKはその点で理想

@ LIPO6はいろんな種類あってhersが女性用、あとこっちはわざわざリスク抱えてるのに白ボトルのライト版を選ぶ意味ってよくわからないのでBLACKがベスト

@ BLACKのULTRA CONCENTRATEは濃縮版で1粒単位の調整できないから却下

@ 太ももには確かに効果があって現在マイナス4センチ

@ でもふくらはぎは全然細くなってない、筋肉を減りづらくするという効果は本当っぽい感じ

@ コンセプト的には筋肉ごと減らして細くしたかったので今後の経過に期待

@ 汗くささをごまかすためにダウニー多めに使って洗濯、干したあとも薄めたダウニーをスプレーでシュシュ

@ 自分ではくさいと思う瞬間もあるが、ニオイに敏感な同居人からは汗くさいと言われてない

@ たぶん想像通りの身体へのマッシブアタックがやってくるので(特に初回)、もし使うならそれも楽しむ感覚で

@ ECAスタックについて、パブロンバファリンで再現可能、要するに使用法と用量か

@ ためしにパブロンゴールド顆粒(エフェドリン含有)と併用してみたけれど変化はなかった

@ 僕は元々趣味で断食する人なので、「断食が楽しくなる」という観点を共有してもらえるとわかりがいいと思う

 @ LIPO6の成分は公式が全然アナウンスしてない、パッケージ裏読むと爆笑するので届いたら確認するのオススメ

オススメ品

買うならiherbがオススメです。適当に見てみた他サイトよりも安い。あと日本語対応していて簡単。

注意事項として、個人輸入できる量がヨヒンビンは2ヶ月以内という制限があるので、120カプセルのボトル1つだけにしといた方が無難なよう。

現在3700円程度。

リポ6ブラック

アンダーグラウンド脂肪デストロイヤー

120ブラックカプセル

http://images.iherb.com/m/NRX-00026-3.jpg

 

あと脂肪燃焼効果を狙ってCLAも飲んでいる。カルニチンでもいいと思うし、お金に余裕あればどっちもあっていいと思う。オメガ3もあっていい。どれも安いし似たようなものでしょ。

http://images.iherb.com/m/JRW-16010-7.jpg

 

 

僕には関係ない話だけれども、オッサンたちは7-ketoも一緒に飲んだら良いのでは無いかと思う。要するに、成長ホルモンが減ってきている分を補うという意味で。リスクとかはググってもらうとして、その昔に僕がためしに一ヶ月使用してみた感じだと副作用はなにもなし、若いからか効果もなしという感じだった。効くという話はそこそこ効くので20後半からはアリかも。安いし。

 

http://images.iherb.com/m/NOW-03013-1.jpg

 

 

ついでにダイソーで売ってる「ビタミンミックス」と「ミネラルミックス」もオススメ。

入手の容易さでバリボリ飲める。もちろんiherbで気に入ったビタミンやミネラルを注文してもいい、というかそっちのがオススメ。海外製のがサプリは優秀かつ安い。

あとさらについでに「マカ」と「ダイエットサプリ」も僕はダイソーで買っている。

マカは脂肪燃焼作用がすこしあるっぽいから気休めアンドプラセボ、「ダイエットサプリ」は要するにカロリミットと同じようなもの。これも気休め。LIPO6飲めない時は代わりに飲んでる。ただしこの「ダイエットサプリ」と「CLA」は一緒に飲むと水溶性食物繊維の効果で脂肪酸の吸収が減ってしまうそうなのでどっちかにしたほうがいいらしい。

どうせ大したもんじゃないから別にいいんじゃないかとも思うけど。

 

あと全然関係ないけれど皮膚炎もちとしてはこのシャンプーもオススメ。iherbだとやたら安い。60ドル以上で5%割引がつくのでいっしょに注文するといいかもしれない。タール入りで明らかに症状が改善された感じがあった。国産シャンプーは効果弱すぎアンド高すぎ、今現在愛用中。タールはマジで効く。危険性はどうやら過剰反応っぽい。

http://images.iherb.com/m/MLC-14380-3.jpg

 

クーポン

iherbで使うと5ドルから10ドル安くなるクーポンコード「KTT467

これを使うと僕にも5ドル分のクーポンが届く仕組みになっているのでちょっとうれしい。

また別に、公式クーポンに「BUY123」というのがあって、これを使えば誰にも得させないで自分だけクーポンの恩恵を受けられるので僕に儲けさせたくない人はこちらを。

↓こんな感じで注文時に入力すればおk。

https://rewards.iherb.com/first-time-discount

 

and more

日本語で調べると僕がここに書いてある以上のことはあんまり書いてなかったので、英語でググるのをおすすめ。

僕は時間的コスト払って熱心に細かく調べてはいないので注意。

「トーキョー・ファッション」の現在完了形(経験)――ハトラ・クロマ・バルムングに「いってきました」

 さること幾年月。ハトラとクロマ、バルムングの展示会に行った。このチョイスは恣意的である。というのも他の「トーキョーファッション」より"おもしろさ"に欠けているからである。視力の落ちてきた最近の僕にとってまだ目に優しい部類に入るがゆえに取り上げたいのだ。

 おおざっぱに括るなら「オタク系」というべきか「アキバ系」というべきだろうか。僕の世代のキーワードは「萌え」である。はじめて「萌え」という言葉を聞いたのはネットのニュースだった。ネットで流行しているオタク言葉として、オタクを自称する身でありながら他人事のように知った。いったい誰が「萌え」なんて言葉を使っているのか、周囲のオタク仲間からもそんな声が上がる中、いつのまにか、たしかにネットでもよく見るようになり、いつしかオタクの代名詞にまで昇華してしまっていた。そこはかとない疎外感、社会から挫折した者をオタクというのなら、オタクであることにすら挫折感を味合わせられた僕を、いったい何に喩えるべきか?

 大した話では無い。要は、オタクがいつの間にか「否定的なもの」から「積極的なもの」に変わったということを言いたいのだ。しかたなく、どうしようもなく、強いて言うならまぁ「オタク」かな?と名指されるものが、我々は、我こそは、まさに「オタク」であると僭称されるようになったのだ。展示会で盗み聞きした話を勝手に書かせてもらうが、ハトラの永見デザイナーが「最近はハトラがモテ服になってる」と言っていた。キモオタっぽいデザインなのに?(くれぐれも悪口ではない)これを似たような話のように聞いていた。なるほど、バッド・ステータスがいつの間にかグッド・ステータスになる現象というのはそこかしこで起こることなのだ。

 しかし誰が許せよう?この後続のグッド・ステータスに群がるニワカたちを?歴史的な継続を、オタクの遺伝子を、このニワカたちは持つのだろうか。同じレッテルを背負うはずの彼らは、我々のバッド・ステータスの嫡子なのだろうか。ただしこの問いの立て方は不正である。バッド・ステータスもこのように僭称されるならたちまちの内にグッドに転じてしまう。バッドなアウトローは背中でニヒルに語るしか無い。――よって許すしかないのだ。

 「背中で語る」と言えば、そう、「日本のアニメやキャラクターしか注目されないのは残念」とメディアで語る「服で勝負」をモットーにする山本耀司デザイナーである。オタクのステータスに浴さない氏がこうも易々と批判してのける理由は、単に外側に立つというだけでなく、外側から見るとオタク系のデザイナーがディスケードを握る「群れ」に見えているからだろう。

 一時代を築いた氏の提言から転じて、ではいったい、これら「オタク系」を「服」として見たらどうだろうか?

 

 ハトラの特徴的なデザイン、「部屋」をキーワードにするフードについて――しかしもちろんそのような「コンセプチュアル」なテーマに引きずられ判断を誤るのではなく、真実に見ることからはじめるべきだ。よって、フードについてはどうでもよい。

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hatra 2014~15秋冬コレクション | Fashionsnap.com

 基本的にハトラのデザインとは、その特徴的なフードのボリュームをどう裁くか――ではない。むしろ裁かず宙づりなままであり、2014FWでも概ねそうである。そのために起こる奇妙な男性的とも女性的とも言えないような造形は、単にバランスをとらないがために起こる――例えばカーテンや雑巾をその形でいちいち男性的とも女性的とも形容しないような、そうした"取るに足らないもの"――「オブジェ」の効果であり、ディティールそれ自体が無性的であるために言えることである。ユニセックス系(アセクシャル、ノンジェンダーほか)のデザインの大半はこの効果でしかなく、ミキオサカベもそのようなごまかしのデザインを多く使う。そうでないものはJWアンダーソンが興味深いが、関連しないため別稿に譲る。

 さて、先述では"概ね"といったがその例外が上記の1点である。わずかに斜行したジッパーに左肩から切り替え線が入っている。ここで接点からの上下がほとんど等分されるが、また一つの主要なディティールである左ポケットまでの身頃も等分される。そこで中心へと重心がかかり安定した構成となっているが身体とともに構成的であるというのではなく、身体の強さに耐えきれずエクスキューズとして引かれたものであり、いかにもオタク然としたナイーブな表象「部屋」の源泉なのである。外れつつ中心に寄る重心は他のコートやロングのパーカーも同じ特徴である。ただしこの上記の1点が優れて特徴的なのは、デザインへの意志の露呈である。それを一つの表象として「部屋」と捉えることは幾つかの中の一つの指向性でしかなく、更にその「部屋」から発展して連想をふくらませるのなら最早どのような関係もない言説へと至るが、それでもある優れた意味を造形から発露させることは十分に意義がある。

 

〈続く〉

【読書レビュー】ファッション批評誌『vanitas』No.2(旧名:fashionista)とはなんだったのか?後編

『まなざしに介入するファッション  ―「ショー」という観点から―』

「1.ファッション批評は更新できるのか?

本稿は問いを次のように限定する。すなわち「ゼロ年代的以降のデザイナーのクリエーションについて"ポスト鷲田清一"的な作品批評は如何にして可能か?」である。」

  本稿は大変におもしろい。なぜなら筆者は鷲田清一北山晴一を批判するのだ。ファッション批評という時にそれらの名前に触れねばならぬ若きインテリジェンスの悩みがここにある。ただしはじめに言わねばならぬこととして、本稿はとてもつまらない。とりわけラカンとジジェク東浩紀(できるならメルロ=ポンティドゥルーズ、ガタリも)を知らない人間にとっては、とてつもなくつまらないだろう。一応、個人的な感想をはじめに述べるならばとてつもなくおもしろかった。なぜなら僕も一度は鷲田清一の『モードの迷宮』を手に取り頭を悩ませた身である。難解だからではない、意味不明だからである。そうして反論を練ろうと試み、ノートを作ろうとしたこともある。しかし失敗した。なぜなら鷲田清一の論述に一貫性を読み取れなかったのである。それでは批判する意味もなかろうと黙殺することに努めた苦節、本稿が代わりにやってくれているのである。喜ばないわけにはいくまい。ただしそれだけに批判の仕方に不満がある。

 第一に筆者は「90年代型批評」という言葉を使うがこんな言葉、不毛なファッション批評の世界には存在しない。2人か3人ほどの個人名をあげれば十分なだけでムーブメントなんて存在したことがない。よって、そのような型にはめてしまうのは不当だろう。でなければせめて文芸とサブカル批評における「90年代型批評」を指すものとしなければいけない。

そして同様に「ゼロ年代」という言葉も不適切である。実際に個別の批評対象として取り上げるシーズンが「ゼロ年代後半」しかないように、やはりそんなムーブメントはない。あるとしても「ゼロ年代」の呼び名は不当である。

第二に明らかにあるべき『存在論的、郵便的』の書名の不在である。基本アイディアのソースなのだから記すのが親切だろう。それに、本稿の論述よりやはり東浩紀本人の論述の方が読んでいて分かりがよいはずだ。実直に哲学書を引用しているだけにこの一冊が無いのは熱心な読者にとって惜しいように思う。

 ところで本稿の終わりには個別の批評がある。リトゥンアフターワーズ、ミキオサカベ、シアタープロダクツ、ケイスケカンダを筆者の語る視点「まなざし」から論じてゆく形式となっている。そちらの方は"批評的に"おもしろいだろうから、是非とも読んでいただきたい。

ネガティブに見えるかもしれないが、本書中で本稿は個人的にもっとも「ファン」である。よってこれはエールなのだ。人は誰しも傷つけ合うことでしかコミュニケーションのとれないケモノなのである。(歪んだ愛情)

 

リアルクローズ化する「マンガファッション」』

「本論ではこの少女マンガのファッションの3次元化のことを、竹村氏の著書から借りて「マンガファッション」と称し、どのようなものが「マンガファッション」にあたるのか、マンガとファッションはいつ・どのように・なぜ融合していったのか、という2つの問題を解き明かすこと、および「マンガファッション」の定義を明確化することを目的とする。」

   キッチュな論かと思い読んでみると至って真面目な論考となっている。単純におもしろいものだ。おいしいところだけを語ってしまうのは惜しいため、語ることを避けたい。晦渋も衒いもない。そして恐らく今後の批評に繋げるのに『vanitas』内で最も将来の広がりがあるのではないだろうか。

critical essay
『ハトラ ―「中性的なものの」力学―』

「マンガやアニメにおけるパーカーはしばしば現実にはあり得ないほどのヴォリュームをもって描かれているということだ。…それに対して長見は、むしろ現実のフードの方を、虚構のフードに接近させようとする。」

「(90年代以降の日本のファッションにおいて)マンガやアニメからの影響が主にその意匠的な側面に限られていたことを考えれば、そうした意匠に対する長見のすがすがしいまでの距離の取り方」

「今この時代に到来しつつある未来、すなわち男性/女性の止揚の結果としての「中性的」という形容すらも中性化する、新たなセクシュアリティの姿に対する想像力でもあるだろう。」

 今現在、本書を読んだことのある聡い読者は気づいたことだろうが、p194からはじまる本稿を開くと驚かされるだろう。"「中性的なもの」の力学" ではないのだ。そう、これは誤植なのである。この驚きを再現するために当ブログの見出しはこちらに準拠する。

 このご時世でパーカーに血道をあげる異端なブランド、ハトラについて本稿は「二次元と三次元」「部屋性」「中性的(neutral)」「中性的(asexual)」といった視点から論じてゆく。もちろんオタクカルチャーが基点にある。僕のようなデジタルネイティブ世代にとっては「<モード/ファッション>対<オタク/ギーク>」といった図式に古さを感じるだけに、興味深い。そしてファッションにおける性と身体の関係についてもまた、ファッションリテラシーがついたころにはエディ・スリマンのゲイゲイしいスキニーさが流行っていた世代だけにまた興味深いものである。

 だからこそ惜しい点を述べるなら――ここで語られる「性」あるいは「中性的」とは形態的な問題でしかなく、前半部の「二次元と三次元の身体論」と後半部の「asexualな身体論」とでは断絶しているのではないだろうか。

ハトラによる中性化は「ユニセックス」なんてありきたりの方法よりもさらに過激な性の中性化である、というよりもはや「非-性(a-sexual)」ですらあるとするならばやはりそれは形態的な問題である。なにせ本当の「非-性」なんて「止揚」のすえの絶対知と同じくらい到来しないものなのだから。形態的な話に「性」という記号的な話をかぶせることで論点を先取りしてしまっているのではないだろうか。

よって、より正確に記述するならば「中性的、だが女性が着ている」と「中性的、だが男性が着ている」になる。「だが~」以下の省略によって現実の身体の問題はむしろ遠ざかってしまい、広がりの余地を無くしてしまっているように思える。

また、グレー・パーカー・スウェットというよくあるものだからこそ比較はしやすく、中性的な色と素材によってその効果を幾重にも増している、として前半部と後半部は結ばれるがこの楔は弱いのではないか。やはりそれは形態的問題なのだから、二次元の「表現」と三次元の「表現」の実際を取り上げなければ見えてこない問題のように思う。僕が"形式"主義者だからこそ、そう思うのかもしれないが。

「部屋性」というおもしろい観点があるだけに、惜しいように思えた。

『「雲のような場所」を巡って ―ASEEDONCLOUD試論―』

「種とは、未だ形をあらわさない可能性の存在である」「場所とは、人と人とのコミュニケーションの受容器であり、物語の発生装置である」

「イメージが加速度的に消費される現象は特にファッションには顕著に見られる。…グローバリゼーションの波に席巻されるにしたがい、世界はあらゆる地域でその場所固有の価値が失われてきた。」

「場所性を見失ったファッションは、必然的に身体、あるいはより非人称的なイメージの追求へと流れ着く。…前者は80年代コムデギャルソンやヨウジヤマモト、後者は20471120やビューティービースト

「本来ファッション、いうなれば服を着るという行為は、自らの場所を擁護し、他者との共時的な場所/関係を作り出すものであるはずだ」

  単純におもしろくない。恐らく本書で唯一「嫌い」なタイプの批評である。(今までのは全部どちらかというと「好き」でした。愛情表現が下手なのです。あと筆者の名字に対する八つ当たりという線もありません。)

要するに筆者は、ギャルソンやヨウジを着るということはブランドイメージを借りてる個人の自己表現なのではないかと言うわけだが、恐らく否定的な意味で「エゴイスティック」と言っているようだ。そしてなんでブランドイメージを借りるのかというと他人に気を払うからブランドという権威を借りるのであって、本稿の言う「個人」というのは「他人」や「他者性」を意味するのだろう。ではいったい筆者の主張するところの「本来のファッション」はなんなのだろうか。僕には想像すらつかなかった。批評という形での単なるラッダイトもしくは自慰行為かと思えた。批評として最悪である。

と、ここまで貶せばむしろ本書未読の者が読みたくなるのではないかと目論んだステルスマーケティングであることを明かして終わる。

JUNYA SUZUKI / chloma ―ネット以降の時代―』

「「クリエイティブである」ということは必然的に非俗物でありあらゆるものから独立しようとするベクトルを持っていると思う。…個人の想いから生まれるものであるにも関わらず、他者との距離を遠ざけてしまうこともある。」

「実際のところ彼が本当に注目し意識している点はそのカルチャーの中に存在する記号や意味のやりとりだったりその構造だったりする。」

「サブカルチャーの要素で服の色を塗り直しただけというような、決してただのサブカルチャーの伝道師としてのファッションという意味ではないのだ」

  以前から特に注目はまったくしていなかったchlomaですが、本稿を読んでちょっと興味が出てきた。(展示会にも行きますよ)恐らく本書で一番おもしろい批評だろう。

 デザイナー同士の親愛や視点といったなかなか読めないものを得られるだろう。筆者がデザイナーであるからこそのものである。時代を振り返る資料やこれからの視点をより豊かにするのに貴重ではないか。特におもしろかったのが「プラモデル感覚」あるいは「フィギア感」という視点である。

さてそれにしても聡い読者は本稿を読んでいて、きっと一冊の書物を思い浮かべるだろう。そうだね、『日本・現代・美術』だね。著者の椹木はポップを「反映のポップ」と「還元のポップ」に分けて日本の現代美術の状況を論じた名著である。どのくらい名著かというと読んだことのない人間が現代アートを語るならば即時に無学無能無知と陰で叩かれるほどである。

chloma論でもいわば「反映のポップ」と呼ぶべきものは言われているが、果たしてではその対のものは同じ「還元」なのかどうか?確かめることで書評としたい。

その点を探るのに記述を引いてくると「フィギュアを所有しコレクションして集めて楽しむその所有者がフィギュアに対してどのような目線を向けているのか、そういう目線における感覚を服で表現したように想う。」とあり、つまるところ「反映」の対になるものとは感覚や体験、もしくは文化の構造といったものになるのではないか。

表現しているのは「内的な体験」or「文化の構造」のどちらだろうか。もし「文化の構造」なら「還元のポップ」とほとんど見分けがつかない上に、さっきの引用では明らかに前者「目線における感覚」なので、僕はここは前者で読み進めたい。しかしそうなると「体験を反映しているのではないか」という疑念は避けられずどうしても「反映のポップ」と距離をとれなくなってしまう。これは構成的な困難である。

 しかし単に構成的な困難でしかない。良い批評だと手放しで賞賛できる。ここから新たに論を展開することはいくらでも可能だろう。「考えてみたい」とか「今後も楽しみである」などと文末に書くだけで将来性を確保できるかのように勘違いしている論考とはまったく異なる。未読のchlomaファンがもしいるのならファン失格である。僕のような批評的にまったく異なる主義の人間ですらおもしろいと言うのだから、そのくらいのことは信じていただいて結構である。

『Ka na ta の身体を活かす服』

「ここにおけるmediumにはあらゆる身体(大きさ・形・性別など)にとって中立的であるという意味(実際にユニセックスのワンピース等が制作されている)の他に、媒介するもの、という意味が含まれており、環境と身体をつなぐ媒介となり得る服作りが模索されていたと想われる。」

「この絵画において生きた空間をつくりだし、衣はその流動性を留めることなく媒介しているように見える。ここにおける衣と同じように、Kanataのつくる"H2X"も、身体と環境に共有され、それらをつなぐ「水」ととらえられるのではないだろうか。」

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 本稿とはまったく関係のない話をしますが、僕は過去、ファッションにおける「空間色」というのを考えたことがあります。今でも考えていますが。空間色というのは要するにこの本稿も引用する絵において、湯気が袖にかかって何かを透して見ている感じの表現のことです。それで、ファッションにもこうした色彩の分析はあるのだろうかとかつて調べたことがありました。そんな論考見つかりませんでした。どこかの世界にはあるのかもしれませんがひとまず見つからず。もしご存知の方がいたらお知らせください。

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 総評

 『fashionista No.1』と違い、新興ブランドへの言及が増えたように思います。また哲学的な論考も以前よりも出来がよくなっているのではないでしょうか。僕はそういうのが好きなので嬉しいです。距離感というものが間違いなくうまく(もしくは読者側としての距離感が)よくなっていると思うのでfashionistaでいまいちと思った読者諸兄におきましても是非とものご購入をお勧めいたします。少なくとも価格不相応という不満はないかと思います。

 ネガティブに見えるかもしれないですが、『vanitas』の筆者の方々へは親愛の情をもって拝読させていただいております。よってこれはエールなのです。人は誰しも傷つけ合うことでしかコミュニケーションのとれないケモノなのです。(歪んだ愛情)

 

vanitas No.002 (送料無料)

※でもできれば書店で買った方が入荷する書店側が喜んで回り回って編集側の利益になると思うのでそっちを推奨。

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取扱店一覧(ちゃんと更新してないのかと思ったらしてるっぽい?)

http://fashionista-mag.blogspot.jp/2012/03/blog-post_05.html

【読書レビュー】ファッション批評誌『vanitas』No.2(旧名:fashionista)とはなんだったのか?中編

paper
『陳列とキュレーション  ―ユニクロ、コムデギャルソン、デミアン・ハースト―』

「作品の流通・消費、プロモーションの仕方までをデザインするハーストの作品は、量・反復性という点ではユニクロの陳列と、キュレ―ションという点ではDSMG(ドーバーストリートマーケット ギンザ)の陳列とも共振し、ハーストを補助線とすることで、…別の角度から接近できると考えるからだ。」

 

「膨大な量の集積、幾何学的数列がもたらす「崇高」にも近い感情は、ユニクロの陳列にもハーストの作品にも看取することができよう。大量に陳列されたモノ(商品)は、…資本主義社会の象徴でもある。」

 「噴水効果」や「シャワー効果」、教科書通りのVMDから外れた「壁面大量陳列」についても顕微鏡で覗くようにユニクロを語り尽くしている。

 そうした分析は十分に"批評"好きでなくても十分に楽しめるだろう。ところで批評的におもしろいところは、ユニクロの陳列を「過剰な反復性とフラットな平面という二つのエッセンス」として語る様である。思わずうなってしまった。

論旨は明瞭である。ユニクロとギャルソンの対比をその間にハーストを挟んで見てゆく。そうするとあるところでは共通しつつも背反する「透明性」と「不透明性」が現れるのだ。

ユニクロは顧客自身にキュレ―ションが求められるが、ギャルソンのDSMは川久保キュレーションが既にある。ユニクロはそれなりに使えてなんとか格好になる服というリスク回避の信頼がある、対してギャルソンは川久保への信頼がある。

明確にギャルソンとは川久保のカリスマ性によるものだと指摘しているようだ。しかし、「ただし、そのキュレーションは川久保という人間のブラックボックスに閉じられたものであるがゆえに、不透明性を免れえない」と文末には手放しでほめない姿勢を示す。(――果たして、この姿勢は唐突すぎではないだろうか?)

ハーストを語るときに「鑑賞者のリテラシーの程度に応じて、…わかる人にしかわからない不透明性」「素人にも衝撃を与える「わかりやすさ」という透明性」といった形で「透明性-不透明性」への定義が与えられている。とすればユニクロの「顧客自身のキュレーションが求められる」という特徴とは、顧客自身のリテラシーを問われる「不透明性」の"わかりづらさ"を感じさせる、といってよいはずである。またあるいは川久保に対して、DSMにおけるアート作品の設置にしても"わかりやすい"「透明性」があるとも言えるだろう。なにせ服屋なのにアート作品を設置するのである。わかりやすいことこの上ない。

そしてまたハーストについて「いわば「半透明性」の陳列であるがゆえに、幅広い層への訴求力が求められる」として不透明性と透明性の両面の効果を指摘している。ではもちろん川久保にも同様に「ファッション・デザイナーとしての創造性」というわかりやすい透明性とともに「ブラックボックスに閉じられたものであるがゆえに」半透明性と言っていいのではないか?

本稿は――川久保のカリスマ性に捕らわれつつも離反を目論み「ほめつつけなす」――典型的ギャルソン・ファンのふしぎな半透明性を、筆者自らがパフォーマティブに示した労作である。

『21世紀スローファッション試論』

「ファストファッションが全盛期を迎える現状への疑問がある。」

「しかし、ファストファッションにしてもラグジュアリーブランドにしても、19世紀後半以来のモダンファッションにおける逸脱的な突然変異なのではなく、むしろその正当な継承者であることを見逃すべきではないだろう。それらは複製芸術としてのモードと大量生産品としての既製服が混淆する地平に出現したのであるが…」

「ファストではないファッションを志向するとは(ポスト)モダンファッションと批判的に対峙することである。だからといって、よくある消費社会批判や市場主義批判のように、既製服を買うことを一方的に罪悪視するのではなく、ファッションの可能性をどう拡張できるのか、考えてみることが必要である。」

「 <スローファション>的なるものを、「ソーシャル」「サステナブル」「ローカル」「ロングライフ」の4つの視点から見ていくことにしよう」

 はじめに言っておかなければならないこととして、試論とは英語でいえば「essay」である。そう、エッセイです。――といって何かを言いたいというものではない。実際に読むとわかるように極めて実直な分析が行われている。オーガニックコットンや一澤帆布モリカゲシャツ、SOUSOU、エコマコ、イッセイの「132 5.」、matohu。多くの事例をもとに4つの視点から「スローファッション」を見てゆくものである。特に僕のようなさもしい精神を持つ人間というのはエコや環境などというものには疎く、恐縮するほどためになる。

しかしあえて言うならば、ファストファッションとモードが同じく「(ポスト)モダンファッション」の正統な継承者の地平にあるのならば、こうして「服飾文化の画一化」を危惧するわりにモードは多様なのではないかという疑問はわいた。消費社会や市場主義の地平ではファストもモードも同じだが、「多様性」とはそもそもからしてまったく別の地平の――恐らく究極的には抽象的な議論の――問題ではないのだろうか。

『生きのびるための衣服』

「人に一生があるように、衣服にも一生がある。」

「衣服におけるライフサイクルとは、原料採取、紡績、機織、編立、染色、裁断、縫製などの生産段階から、流通、使用段階を経て、回収、リサイクル処理、廃棄処分段階に至るまでの一連の流れを指し、国で考えた場合にはこれに輸出入の段階が含まれる。このようなライフサイクル全体を通じて対象の自然環境へ与える影響や人との関わりを思考することを、其飯(そのまま)「ライフサイクル思考」という。」

  前稿に続きこれもまた極めて実直な分析である。衣料品のリユース率やリサイクル率は一割・二割といったところで2000年代変わらないというのだ。それほどしか行われていないとなれば筆者の危惧もわかる。本稿もまた個別のさまざまな事例を見てゆくものだ。環境問題に興味のある方には衣料品がどうなっているのかを、衣料品に興味のある方には環境問題としてどうなっているのかを、是非とも読んで考えていただきたいと思う。

 

『衣服論事始め ―衣服と時間あるいはメゾン・マルタン・マルジェラと反時代的なもの―』

「人間は衣服なしに存在することができないのである。衣服と時間。これらはまさしく人間という存在の根底に刻まれたふたつのものなのだ。人間を通して、衣服は時間と出会う。ここで問題とされるのは、衣服における時間の諸相である。」

「(鷲田清一がギャルソンを、モードより速くなることでモードの現在主義から抜け出す突破口として見て取ったのは)しかし一方で、こうしたあり方は、現在以外の時間を認めないという点において、時間に対する視点を決定的に変えるわけではない。」

「抜け出すことの出来ない現在という地獄。これがモードの世界を定義づけるならば、ここで描くのはモード化されえないものとしての「衣服の時間」である。」

  もし順番に頭から『vanitas』を読んでいくならば、ここで打って変わっていかにも「批評」らしくなる。また聡い読者にとっては言うまでもなく、本稿の元ネタはフッサールの時間論批判である。内容は哲学の用語が頻出するわけではないが、恐らく聡くない読者には大変なものだろう。逆に、その聡い構図が読めればわかりは早い。では、そうした聡いやり方で読んでゆくことを試みる。

「時間における過去性がそのまま物質として現前化し、現在の内に入り込んできている。素材の過去性は現在へと統合され、なめらかに縫合されてしまうことはなく、むしろ現在においても過去として存続し続ける。こうした過去は、現在に吸収され、見えなくされてしまうようなものではなく、現在において、それをはみだすものとしてとどまり続ける。」

「こうした過去は、一種の物語だと言ってもよい。素材となったものが、衣服であれば、その当のものとして使用されてきた歴史がある。」

  古着風のテイストやリバイバル現象による過去の振り返り方というのは、「過去」を「過去」としてでなく、"今の地点から"振り返って見るのであって、結局のところそれは現在をあたかも起源であるかのように基点とした「現在主義」なのである。――この現在への収斂をフッサールは「過去把持」と呼んだ、

 それに対してマルジェラは、そうした「現在主義」のモード地獄に対してまったくの根本から徹底的に抗っている。現在にどうやっても回収されることのない過去の痕跡が、長らく脱構築的と呼ばれてきたような視覚上の特徴、つぎはぎやねじれを帯びて非対称的な形で現れる。虚飾された「過去」を単に振り返るのではなく、決してキレイでもなめらかでもないありのままの「過去」を「過去」のまま受け止めることなのである。――ハイデガーフッサールを批判して「過去・現在・未来」という枠組みを「既在・現在・将来」に改めた。「過去」は現在以前に「既」に「在」るのだ。

「おそらく衣服にアートの要素があることは否定できなくとも、また衣服は純粋な芸術作品ではない。その理由を時間性という観点から考察してみたい。」

「極めて単純化するならば、芸術作品においてある種の永遠性への志向が存在するとすれば、衣服においてはそれが原理的に不可能であるという点にあろう。」

  マルジェラ-ハイデガーの時間論から次章『生の時間/死の時間』はファッションとアートという関係性からはじまる。

「着ることのできない服は、それは服というよりオブジェである」という一文に、昨今のドメスティック・ブランドにとっては耳の痛い意見を勝手に読み取るまでが聡い読み方です。優秀な批評とは常に多義的なのです。

しかしそれだけにアートについての言及は見逃せないところがある。このアートの定義は、要するに古式ゆかしい神事じみた大芸術のことを指しているのではないか?少なくとも現代アートで永遠性への志向というのはほとんど希少だろう。しかしそれでもアートと名乗っているのだから「アート」の定義を狭めることなしに認めないわけにはいかない。だがこの批判点はハイデガーの影をあまりに見過ぎているため控えるべきだろう。(ハイデガーの名前を筆者は脚注で一度しか使わないのだから、こうしてことさら強調することすら不当だろう。)なにせハイデガーの芸術観とはモンドリアンのような作品すら認めないものなのである。

 そして最後の章『反時代的なものへ』で現在の状況を見ながらマルジェラに見て取るべき新しい時代のありかたが探られる。

「新たな反時代性の線を顕在化させること、おそらくこうした実践が衣服という領域においても求められているのだ。」

マルジェラというあまりに大きなテーマに対して、その大きさに見合うだけの大きな思索によって分析が試みられた。論述の物足りなさを感じるところもあるが、恐らくはどうやっても十分に語り尽くすことはできないだろう。vanitasと筆者自身とをある種の「反時代的なもの」として賞賛しなければならない。

(そしてなにより"使える"のが脚注である。ここは是非とも読んでいただきたい。)

 

後編へつづく。

【読書レビュー】ファッション批評誌『vanitas』No.2(旧名:fashionista)とはなんだったのか?前編

『vanitas』No.002 目次

foreword

interview

  西尾美也

  北山晴一

  ここのがっこう

 paper

  南後由和

   陳列とキュレーション── ユニクロ、コムデギャルソン、デミアン・ハースト

  成実弘至

   21世紀スローファッション試論

  津田和俊

   生きのびるための衣服

渡辺洋平

   衣服論事始め── 衣服と時間あるいはメゾン・マルタン・マルジェラと反時代的なもの

  小林嶺

   まなざしに介入するファッション──「ショー」という観点から

関根麻里恵

   リアルクローズ化する「マンガファッション」(公募)

 

international perspective

  研究機関紹介(IFM)

  展覧会紹介(「衣服は現代的か?」ほか)

  書籍紹介(『着衣のヌード、脱衣のヌード』ほか)

  研究者紹介(『vestoj』)

 

critical essay

  星野太

   ハトラ──「中性的なもの」の力学

  蘆田暢人

   「雲のような場所」を巡って── ASEEDONCLÖUD試論

  HACHI

   JUNYA SUZUKI / chloma ── ネット以降の時代

  三村真由子

   Ka na ta の身体を活かす服(公募)

afterword

《転載元》

http://fashionista-mag.blogspot.jp/

 

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「日本にはファッション批評がない」

「ファッションは文化として認められないことがよくある」

「ファッションに批評は合わない」

――という嘆きから本書『vanitas』の《序文》ははじまり、

「とはいえ、批評の不在を嘆いても何も始まらない」

「これらはすべて批評の構築のためにある」

「この『vanitas』という小さな一歩が、大きなうねりを生み出すことを願う。」

――という宣言で《序文》は締めくくられる。

 この《序文》はいったい誰が書いたのだろうか?《後書き》には「水野大二郎」「蘆田裕史」という編集者両名の名前が記されている。しかし《序文》のどこにも人名は見あたらない。

もちろん実際に誰が書いたのかという推測は99%正確にできる。それでもあえて、いったい誰が書いたものかと問うならば、この無記名の嘆きと宣言は「誰か」によって嘆かされ、「誰か」に向かって宣言されたものだと僕には思える。そして「誰か」とはもちろん「我々」である。

ではそのような「我々」は、嘆かせた責任と向けられた宣言にどう応えるべきか。あまりに重い課題である。せめて、ただこうしてレビューを書き連ねることくらいしか今のところの僕にはできそうもない。また同時並行で販売促進祈願も可能だろうから、そのくらいはやっておこうとひとまず思っている。

interview

 V(vanitas):「西尾さんが度々用いる言葉である「装い」はどのように定義づけていますか。」

西尾美也:「「装い」は、身体に加工を施す行為とその様態を指し…この世に生まれ落ちた姿のままである「裸」の不可能性…たとえ一糸まとわぬ部族がどこかに見いだされたとしても、その人々はある種の髪型を持ち、ある種のつめの切り方をし、歯や皮膚にある種の加工を施していたりする。そういう意味で、身体からどれだけ装いを取り除こうとしても、人間は社会的身体、または文化的身体として常に何かを装っている状態から免れない…。」

 そういえば最近どこかで「"ファッション"と"装い"は違う」という話を見たと思ったら、もしかしてファッションとの関係の問い直しを目論んでいるらしい某氏の影響ソースはここからなのだろうか、なんて詮無いことを考えながら読んでいた。 西尾美也の作品はとくに理由を考えたことはないがおおむね嫌いである。アートとファッションの関係ということもインタビュー内で語られるが、僕の嫌いな理由をそこで発見した。流通やブランド、ビジネスとしてのファッションを語りサイトスペシフィックな多様性を唱えるが、ここがおかしいのである。もちろんサイトスペシフィックの最小単位は個人だろうから当然「自分で自分の装いを作る」ことが多様性の最善の状態だろう。大量生産の時代以後の消費社会を考えるならもちろん「「選択」することで自分を「つくる」」ことになるわけだが、それだって立派な個人・個性であるし、むしろ何も選ばずに「つくる」ことは可能なのかと問わなければならない。「自分で自分の装いを作る」ことの困難さとは、すなわち「「裸」の不可能性」の意ではないのだろうか?

「つまらない大量生産やコピーを抑えて且つよいものを残し…」

僕にとってつまらないものは彼のような個性の作品であり、残されざるべきは"おもしろい"ものである。

 f:id:f_f_f:20130630164516j:plain

 新しいファッションへの道は?

北山:「他方、ストリートファッションを強調する人は、かなりポストモダン的な考え方に近いと思えますね。私たち自身が内部に抱えている階層化意識みたいなものを見ない振りをする。」

(略)

蘆田:「先ほど「ハイファッションの力を侮っているのではないか」というご指摘がありましたが、具体的にはどのような力を想定されているのかについてご質問してもよろしいでしょうか」

北山「お答えになるかどうかわかりませんが、いま銀座松屋の東角の部分をルイヴィトンの店舗が占めていますね。それが、今度増床するに当たって、中央通りの壁面を大幅にヴィトン化するようです。この現実を見ないわけにはいかないでしょう。」 

  北山晴一インタビューは、恐らく『vanitas』読者にとって冷や水である。蘆田氏が國分功一郎-ボードリヤールを持ち出して「消費と浪費」を語ると、北山氏は「懐かしいですね」と返す。社会とファッションの関係にしても、ストリート文化を決して手放しでは礼賛しない。シャネルやヴィヴィアンウェストウッドについては「企業に回収されていくという仕組みそのものは変わらない」と言い放ち、「ストリートファッションのなかで、俺はずっとやっていくぞ」なんて人については「いるのはいい」と歯牙にもかけない。ファッションの新しさとは何だろうかと夢を抱いてページを捲る度にきっとさめていくことだろう。都合よくパラフレーズしたり、名言風に一文だけ切り取って咀嚼したりと防衛機制に努めるか、もしくは"大人になる"かどうかである。

 

 

※ここのがっこうインタビューについては割愛。

 

長いので記事を分ける。中編へ。

【SAINT LAURENT】ファッションの、ジェンダーの、デザイン。 ~エディ・スリマンの表現~

エディ・スリマン論 序章だったもの
http://fff.hatenablog.jp/entry/2013/02/11/120523


 ブログという媒体のために前記事ではしようもないことになってしまった。
紙面を新たに具体的な批評に入っていこうと思う。
脳内の構想では、ひとまずエディ・スリマンを導入に語り、その後atoやmintdesigns、JWアンダーソンにまで手を伸ばすつもりではある。
「生物学的な性差などない」などと言われるようにジェンダーの議論は哲学的かつ複雑だが、それにしてもデザイナーはこの「性」というものを抽象化して表現せねばならない。
ファッション批評の領分としては、議論よりも実際的な表現がどのように行われているかを取り上げる必要性があるだろう。
しかし、果たしてブログという媒体でそれが可能かはわからない。
そういうわけで細切れで簡易なものになるが、今はエディ・スリマンの特に復帰後のレディースとメンズについていくつか見ていこうと思う。



 メンズについては過去の例があるためにそれと比べてうんぬんと語ることは容易いだろう。
「エディらしい」
「変わっていない」
しかしレディースについてはそういった安易な手法ができないためか、誰もが口を閉ざしたのではなかったろうか。
メンズの「賛否両論」と違い半ば黙殺か、恐る恐るといった風情すらあった。
そういう時に出やすい言葉はだいたい決まっているものだ。
経験の乏しさは新しいものに口をつぐませる。
全く未知であってくれれば手放しでほめるのも容易くなるのに、ちょっとした繋がりがあるように思えるとその疑心に暗鬼が宿ってしまう。

ここで解かれるべきは、この一連の関係性についてだろう。
つまりエディ・スリマンが何を表現してきたのかということだ。
一貫性があるようにもないようにも思える。
うまく繋がらない曖昧さに対して、「中性的」や「無性的」などといったそれ自体曖昧な言葉をかろうじて接着剤に使う時、人は視力を一気に無くす。
もはや何を見ても曖昧にしか映らない瞳とは盲目となんの違いもない。
視力を持ち続けようと思う限り、しっかりと見なければならない。



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look[38]

 はじめに、あえてレディースから取り上げるべきだろう。
なぜならメンズでの称賛とは、もはや歴史問題である。
感情的にならず語ることができなくなっているからだ。
これは単なる煽り文句ではなく、まさにレディースにおいて明かされる事実である。
エディ・スリマンを見る時、誰しもが感情的であったのだ。

上記のルック[38]を一例として取り上げる。
外の輪郭線(ライン)は直線的で裾にもたるみはなく垂直に地面へと向かっている。
肩のファー(?)は帽子のおかげか下半身にまでは影響を及ぼしていない。
ただ載っかっているだけである。
この直線による構成には二つのスリットが使われている。
一つ目は裾の扇状のものである。
裾を垂直なままに制御するとともに、起点の太ももへ視線を引っ張り重心を整えている。
二つ目は胸元のスリットである。
このディテールは他ルックでも多用されており[29][31][37][52][54]は同型と言っていいだろう。
変形としては[4][10][43]なども挙げられる。
実質的なデザインの効果はどれも同じである。
レディースのデザインは否応なく胸をフックになされてしまうが、このスリットはそれを避けている。
曲線という女性美を表現せず、膨らみにならない胸骨をなぞるような歪んだ棒状でしかない。
こうした胸元のディテールについてはmintdesignsやYasutoshi Ezumiなどと比較して論じるべきであるが冗長になるため避ける。
しかし通常の"優秀な"デザイナーとは外側(ライン)で女性らしさを作らなかった場合、内側のディテールで表現を行うが、このルックで言えば直線的なラインかつ、ディテールもまた直線的である。

他のルックを見ると基本的には直線的なラインと、"取って付けたような"シフォンやレースで構成されていることに気づくだろう。
これが批判されるような、退屈な構成の元になっている。
かろうじてレディースのデザインに仕立て上げようというエクスキューズが見て取れるだろう。
あくまでもデザインの芯には直線があり、形状でそれを崩していない。
わざとらしい"取って付けたような"リボンとレース使いが、つばの広い帽子もまた、静まり返った服を見栄え良くするための「飾り」である。
総じて「失敗」を取り繕うという消極的なデザインと言えるだろう。
人気が芳しくないのも、致し方ないように思う。
レディースのデザインとしては、女性の肉体という豊かな素材を全く活かしていないのだから。
しかしこの「優秀なデザインではない」という「失敗」が時には意味を持つ。


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look[30]

 問われるべきは、そのデザインがなぜ必要なのかだろう。
エディ・スリマンによるメンズのデザインはその点で問いが多い。
デビュー頃はラフ・シモンズにも類似するような禁欲が散見されただろう。
それらはいつしか対極的な「ロック」という娯楽な調子に塗りつぶされていった。
塗りつぶされはしたが、失われたかどうかを見極めるために問いは必要なのだ。

ルック[30]では一見して平凡なスタジアムジャンパーが目立つが、単に平凡なのではない。
デザインについての「ラインが美しい」とか、細いとか太いとかいった大味な言葉こそが平凡なのである。
平凡から隔離される理由として、肩口の白い切り替えの中央に黒い線が引かれているのだ。
もちろん「おもしろいデザインだから」と珍奇を誉めそやすような、愚にもつかないことを言っているのではない。
切り替えだけで十分に肩口にアクセントが置かれるが、この線によって頂点は曖昧になっている。
服の下の身体上の頂点は切り替えの最も外側に符合するだろう。
肩幅はわずかだが白の地が続く分量の関係で狭くさせられるが、しかしそれを引き戻すように、線が内側に別の頂点を作っている。
単に狭い肩幅を表現するのであればレディース的だが、線によってこの服のジェンダーはどっちとも言えないような、なんとも居心地の悪い宙吊り状態にあるのだ。

この一本の黒い線は計算に基づくものかはわからないが、それなりに独特の意味を獲得している。
またこうした線によるデザインが特徴的なブランドとしてmintdesignsが挙げられるだろう。
しかし都合上ここで触れることはできない。


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look[35]

ルック[35]はジャケットの豪奢な金の刺繍で特に見栄えは良い。
しかしデザインとして冷静に見れば、やや下品に転じてしまう。

前景に迫り出す金と後景に退く黒の対比によってジャケットの内部で分裂がある。
金の刺繍が浮き上がってしまい黒の地と分かれている。
肩へ向かって黒の地を三角筋のように切り離すが、しかしあまりに大仰な形のため、怒り肩のような出来の悪いラグランスリーブを思わせる。

このデザインはレディースの方で語ったように「失敗」のデザインと呼べるだろう。
直線的なラインと相乗的になっているが、しかしジャケットの内側で既に分裂してしまっているように、身体とはほとんど無関係な形で「取ってつけた」ものである。
レディースにおいてリボンやレースで行ったように、メンズではそれが金の刺繍に変わったのだ。
いわば「飾り」がメンズにおいても多用されている。
このような「飾り」は他のルックではストールであるし、羽織のコートでもある。
飾りは構成の調子を整えはするが、[30]のように何か身体への攻撃を及ぼすものではない。
[30]の失敗と呼べるものは肩の頂点がズレているため微妙な違和感を覚えさせる点である。
しかし飾りは違和感を隠すための失敗であって一旦は分けて考察されるべきだろう。


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look[42]

ルック[42]は今回のコレクションでは最後のものである。
他のルックと比べて特にひねりが加わっている。
またジャケットの概形は過剰なまでに直線的であり、ルック[35]と近いように思える。
チェックシャツでの構成も似ているため、穿った見方をすれば同時期か変形として何らかの関連性があるのではないだろうか。

[35]では穏健なものだったが、[42]ではジャケットの裾が奇妙に尖ってチェックシャツと激しく分裂している。
単にジャケットがシャツの上に載っかっているだけという風情すらあるだろう。
シャツは量感のある生地で、またチェックという柄のためにこの分裂をより強くしている。

しかしシャツの丈がチュニックのように長いにも関わらずレディースに傾かない、あるいはレディース的としても異様に生硬な印象を持つのは、柄の作る流れとそれを補助する生地の質量のおかげだろう。
柄に注目してみるとどの線も歪みなく垂直と水平で、その表面はぼんやりと平坦に広がっている。
また女性であれば重心の置かれるべき腰のくびれに相当する位置は、ジャケットの裾が下へと指示するために重心になっていない。
このルックにおいて最も強く指示される部位とは、流れていってしまうジャケット裾の先と、茫漠な流れの先のシャツの裾になるだろう。

パンツについても言及すれば、上半身よりもむしろ強く位置を主張している。
基本的にはレディースで多く見られる工夫ではあるが、ジョン・ガリアーノのようなゲイ的デザインにはパンツの外縁を切り替えなり柄なりで縁取るものがある。
その縁取る分量だけ足を細く見せられるためだが、このパンツにおいては断片的である。
太ももの極一部のみがそう言える。
膝の皿にはその輪郭を描くようにジップが配置され、唯一積極的に骨格を強調するデザインとなっている。
脚部が重心を主張する必要性などまったく無いにも関わらず、唯一の積極性がここにある。

一旦ここで言及するとこのチェックシャツの身体上の位置を見ると、以前ブログで触れたものだがジル・サンダー2013SSの[16][18][36][38]に近いものが見られる。
抉るような切り替えが身体の中央に走り、ポケットのフラップ下から広がっている。
もちろん違いも多いが、それでも身体上で及ぼす効果は似ているだろう。


 こうしてレディースからメンズにかけて論じてきたように、エディ・スリマンのデザインには常に「直線」と「飾り」がある。
そしてこの直線は単に造形的ではなく、というより必然的に造形上の「失敗」に覆われてしまうのだが、ジェンダーに訴え得る力が秘められている。
「無性的」という言葉を使うことが許されるならある程度は相応しいだろう。
しかし無性とは現実にはありえないものだ。
性との闘争を伴うファッション・デザインにとって、無性を標榜することは逃避に近い。
事実、大きなパーカーを着てそれで無性となるのであれば、実に美意識に欠けているという意味で無性と呼べるだろう。
布団にくるまっていればそれで良いはずだ。
しかしそれが許されないためにデザインが必要とされ力を持つのではないか。

女性美と男性美はそれぞれ概念上はともかくとして、デザイン上は逃れられない。
これを超越したというのであればそれは美しくないという点で、女性美にも男性美にも属さないというだけのことである。
エディ・スリマンはその点で果敢だろう。
難題ゆえに失敗をしているが、いくつか見て来たように「宙吊り」にしてしまうデザインの力を見て取れる。
あたかも身体と服とを抽象的にしてしまうような力である。
ここでは最近のコレクションのみを扱ったが、リヴ・ゴーシュやDior homme初期のコレクションにも未熟ではあるが片鱗は伺えるように思う。
例えば最近のJWアンダーソンにもそれらは近い。
退屈と失敗のため、優れたデザイナーであると手放しでは言えないが、ジェンダーを問題にするデザイナーには多くのヒントがあるのではないだろうか。
この一貫した挑戦は、移り気であるほどアヴァンギャルドの大家を名乗れる国内事情を鑑みると敬意に値する。
恐らく今後も一貫したそのデザインは人気を保つように思われるが、群盲が象を評するような不毛と悲劇に沈まないよう祈るばかりである。



 今回はひとまず「ジェンダーの、デザイン」を焦点に論じたために、取りこぼしと先急いだ部分は多い。
ブログという媒体は全く向いていないように思われるが、何らかの形で行われることを我ながら祈るばかりである。



【参照用】
Saint Laurent 2013SS
http://www.fashionsnap.com/collection/yves-saint-laurent/saint-laurent-women/2013ss/

Saint Laurent 2013FW
http://www.style.com/fashionshows/review/F2013MEN-YSLRG

JIL SANDER 2013SS
http://www.fashionsnap.com/collection/jil-sander/mens/2013ss/