Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















「"パクリ"など存在しない」&「ファッションは更新されない」――俗・ファストファッションとファイン・アート

 前記事はトーシロー向けのもので、深くは踏み込みませんでした。こちらでは如何なるジャーゴンも厭いません。読者など知ったことではないのです。パンツ上げ、敬語やめ。我こそは意識衝天という方、入ってどうぞ(迫真)。


【以下の話を先に読むこと推奨】

ドリフターズ・インターナショナル
http://drifters-intl.org/event/category/talk_symposium/639

【会議議事録】
会議 vol.0 『キックオフ/前提の確認/“パクり”の文化史』 議事録⇒ http://bit.ly/VqkHQw
会議 vol.1 『DIY→DIWO→DIFOへ、という時代に』 議事録⇒ http://bit.ly/S011Co






哲学・批評に興味ない人は前半飛ばしても可


<冒涜>について

 承前。ファストファッションの運動とはファッションに初めから根ざしたもので、オリジナリティーに依拠したデザインは逆説的にその冒涜的な運動の真っ只中に向かい投げかけられるところから表現される。つまりオリジナリティーは実体的なデザインとしては初めから不在であり、かつて一度たりとも存在したことがない。決してベンヤミンやバルト流の提起ではなく、"一度たりとも"存在したことがないのだ。「複製技術」と「作者の死」はバズワードとして並んで使われている。前記事とこの点は一致する。近代のもたらした複製技術による模倣の増大などではなく、この運動は初めからデザインの根本で駆動していたはずである。これを<冒涜>と呼ばねばならぬ事由は、まさにベンヤミンやバルト流の言説を援用したがる批評家に依る。彼らは複製技術によってオリジナリティーが失われてしまったような悲痛な面持ちを、あるいは開き直ったように新しい技術として取りこもうと奮闘するが、どちらも喪失感からの回復を企図する呪術的な医療に過ぎない。いったい何が喪失されたのだろうか?初めから不在であったオリジナリティーを、なぜ失うことができるのか?




忘却と記憶について

 オリジナリティーとはどのようにして確保されるのか。オリジナリティーに必要な条件は「忘却」と対のように「記憶」である。デザインの目的「忘却」は希薄化し、ある種の文化的コードとして空気のような姿への昇華を目指している。しかしそれには常に<冒涜>が付きまとい、決してオリジナルがそのままの形で保存されることはない。目に触れた時から、いやそれよりも目に触れる以前から、何らかの思考として想像されてしまった時から既に<冒涜>が始まる。想像したものを理想のまま表現することは、技術的にはもちろん、より深く根本的な形で人間には不可能なことなのだ。
 にも関わらず、いったいどこでオリジナリティーが実体を持つかのように思われてしまうのか?デザインを目で描いた時にそれが「理想的な想像と一致している」かのように、捏造的な鏡像として再認され、その一瞬的な同時にオリジナリティーもまた捏造されるのだ。そしてこの一瞬間の時間性無く行われる記号作用の名前が「記憶」である。技術的な不可能にもとらわれず、また何の引用でもないような形でデザインが想定される時に参照されるのはただこの記憶の内のみである。記憶の中であれば、思い浮かばない文化的コードなどは忘却のまま思い出されることはなく、また思い出されたところで如何様にも呪縛から逃れる形に変えてしまう。夢現のようなこの「記憶」にとってどのような文化的コードも問題ではない。記号は記号の中でのみ神聖かつ純然な戯れを行う。またそれゆえに、この「記憶」が法によって裁かれることはないのだ。



裁き得るもの

 ここにおいてテーマになりがちな「法」との関係は明白である。商業的な存在とは全て法的な存在なのだ。「法」こそがまさに根源的な商業性の象徴として君臨している。無限のソース元に支えられた現在的な表現物は全てが<冒涜>として違法となり得、またそのために取引が可能になる。取引の条件は法なのだ。法なくしてどのような交換も取引も経済も成立しえないし、また法そのものが外圧によるものであれば条約と固有名を持つように、法自体取引されえる商業的なものであるゆえに、法もまた無限に上級の法を求めつつ商業的なものなのだ。具体的法で裁かれる時、著作権とはいったい何か。そこでは作者の心情までもが商業的になる。
 「財産権が侵害されたことによって、被害者に精神的苦痛が生じたとしても、その苦痛は、原則として、財産的損害が賠償されることによって慰謝されると解すべきである。」という文言はテクストとして何を意味するのか。法は裁くために、実体を持たない心情に「法の一撃」をもって、実体としての表現を交換可能な形で背負わせる。「記憶」は裁くことができない。なぜなら神聖かつ純然な「記憶」はどのような形でも<冒涜>を逃れてしまうためである。しかしまたこれは逆説的に「記憶」の中のオリジナリティーを主張するためには、戯れの中止を必要としてしまう。夢現から「法の一撃」によって相手と同時に自らの目も覚まさなければいけない。そして問われるのは初めにあったオリジナリティーなどではなく「商業的な利害関係について」に変わるのだ。またそれゆえに<冒涜>の無い純粋なオリジナリティーなど、未だかつて歴史上には一度たりとて現れたことがない。現れた時には既に商業的で不純なオリジナリティー、いわばある種の商標、「アイコン」としてのみオリジナリティーは主張されてきた。「記憶」の適域で留めておかなければならないオリジナリティーを主張することは、自意識の過剰な暴走であり、起源の捏造なのだ。




 

マルジェラ、またはファイン・アートについて

 それでは果たして、マルジェラや現代アートに見られる「アプロプリエーション」はどのように位置づけられるのだろうか。一面では全くその意味で「我有化」(appropriation)である。しかしいったい何を所有するのか。創作の幻想を捨て、表層的な表現を捨てた純粋美術的「アプロプリエーション」は何を所有しえるのか。逆説的に彼らが所有するのは捨てたもの、表層である。その表層を措定しつつ意義を新たに創設する。彼ら純粋美術家は法とは全く逆に、実体としての表現に記号を背負わせる。それゆえに彼らの芸術は法から逃れてしまうのだ。「法」が芸術と対峙した時に裁きえるのは、措定した表層の「利害関係について」のみである。デュシャンウォーホールなど、コンセプチュアル・アート以降のオリジナリティーはこうした奇妙な形で近代以前よりもより強く保持されている。「誰によって作られたのか」意義作用のためにむしろ固有名が要請されている。



 

「Margiela with H&M」が売ったもの

 表層を捨てたマルジェラにとっては、一面的にはたしかにどのようなものであってもそれは作品になり得る。しかしことH&Mとの連名においてはこれが逆の価値として作用する。つまり、どのようなものであっても「マルジェラ」という作者が独立して不在であるために純粋記号的「アイコン」が紐付けられてしまうのだ。特にそれが新しい表層であるほどその不在は強く意識される。そのために「焼き直し」が選ばれたのではないだろうか。マルジェラに対する最大の攻撃とはその固有名の(無論単純なスペルの問題ではない)剽窃であるはず。この固有名が宿る純粋記号としての「アイコン」ではない場所、措定的な同一性を死んだまま保持しようとする「ブランド・アイコン」が「焼き直し」されたのだ。純粋なマルジェラの功績は依然ファストファッションの<冒涜>には侵されていない。H&Mは正しくビジネスを行ったのだ。



 

ファッションの呪い――ファッションは"更新"されない

 参照リンク先に寄り添い、最後に話を「ファッションの更新」に当てるが僕は「更新」には何も希望を持てないでいる。例えば、こうして記述されたマルジェラの功績すら、無論ファッションの体系から導かれたものではない。ファッションの脆弱さは「芸術の終焉」という近代以降の壮大なテーマにすら届かない、より小規模かつ沈鬱なものである。"何も"死ぬことすら許されていない、また円環は閉じてすらいない。無論それ自体が制度的な「美」の概念ではあるが、それを愚劣と罵ることすらもまたできないでいる。
 認めなければいけない。ファッションにモダニズムは訪れなかったのだ。それゆえに反省とは、積み上げられた呪物の山に更に呪物を奉じるものでしかない。ファッションは「失ったのか」あるいは「初めからそれを持っていなかったのか」どちらか判別できぬほど錯乱の中にある。ことあるごとに喪失感を発見しては呪術的な治療が行われ、またその喪失感すら偽りのものなのだ。更新は起こらない。













結論、マルジェラのタグは切れ。




追記:模倣や法の話はあっさりやるにはもったいなく、哲学的な話になるので前記事だと書き足りないところを書きました。デリダとラカンを使ってますがそこまでガチでやる気もしなかったので引用や言及はしてませんが、わかる人にはわかる感じに最低限語彙は準拠しているつもりです。あと個人ツイートやドリフターズから引用していますが攻撃的な他意はありません。


~ついでにものすごく奇特な人用に参考文献~

デリダ
「盲者の記憶」
ここでは目は涙を流すものであり、記憶のためにはあらずと論じてます。ドグラ・マグラ的な「脳は考える器官にあらず。」に似ている上にその記述の難解さもドグラ・マグラに匹敵しているかと思います。デリディアンにはなかなか高めのご褒美レベルです。
アナムネーズ<想起・記憶>」と「アムネジー<忘却>」の対比、また「アレーティア<真理>」を「レーティア=忘却」の否定的な形としても論じています。記述と比べ論理展開は割りとシンプルな美学論ですが要約できるレベルではないのと、若干自分の使用法とはズレてしまう(自分に厳密さは当然無いため)のでこうした紹介のみで。というか実際これをほぼ書いた後に読んだので直接的な関連性はほぼないです。

「声と現象」
フッサール批判本ですが、実質これ以上にないほど「指標」と「表示」など煩瑣な記号論を厳密に考察したものはありません。「記号」がどうのこうのと話をしたい方やバルト信者は読むべきです。読後にはバルトはフッサールとともに地獄の火の中に投げ込まれるかと思います。よく混同されがちなバルトの記号論から導かれた「作者の死」とデリダは全く相容れるものではないことが、正しく読まれたらわかります。ネット論壇や普通の批評家でもよく間違ってる気がするので紹介。特にファッション批評界隈の「記号」という言葉遣いは全く無意味で有効な用法ではないため、僕の記述においても「純粋記号」などその泥沼に片足を突っかまざるを得なかったことを一応注記とします。

ラカン
佐々木中「夜戦と永遠」
この本はラカンの説明に限れば大変ためになり大いに参考としています。僕の勧めで読みたくなる人間がいるとは思えないですが、たしかにこれならまぁ現代的だと納得できる程度にはラカンが仕上がっています。ハイデガーの引用とかあまり上等とは言えないと思いますが、まぁ諸兄でも納得はできるかと思います。主に行為遂行的なラカンと<法=契約>をパロールとランガージュの対比、また象徴界の確定させる<法の一撃>など、そのあたりは使えるかと思います。それ以外は…。