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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















エロゲー服飾論・性(静)的デザイン試論「没入的エロゲーとは」

エロゲー服飾論 ネタ

 三次元の服飾理論と二次元におけるそれは同じく「服」をデザインしながらも全く異なる体系を持つ。その断絶が「乳袋」という今日では批判されつつも生き延びる鬼子を産んだのだ。その断絶とは何か、果たして二次元は三次元の肉体を写しとった単なる二次的な模倣なのかを解明せねばならない。


 エロゲーCGとそれ以外の絵画・CGの最も大きい表現上の差異は、光彩のコントラストではないだろうか。エロゲーCGは極端にこのコントラストを抑え、前景のキャラクターとその背景CGとの関係は融和するほど同じ質感で描かれている。例えば立ち絵を表示している時に背景CGをぼやけさして遠近感を演出をするエロゲーもあるが、それで極端にキャラクターだけが浮き上がることもなく、また遠近感がことさら強調されるというよりもむしろ「遠近感を表現している」といったそのものの表現の印象しか受け取れるものではなかった。エロゲーCGは基本的に奥行きが極端に少ない一人称視点の光景が描かれる。恐らくだが、これがエロゲーにおける最も基本的かつ普遍的な一つの要請であろう。
 エロゲーCGは、カラヴァッジョやレンブラントのような激しいコントラストであってはいけないのだ。それは背景CG世界に没入的な自律した三次元世界を呼び込み、同時に二次元世界へと向かう客体との関係において観者=プレイヤーの陶酔感を跳ね除けてしまう。シャルダンがその端緒として例に挙げられるような反演劇的イメージであるほどに、エロゲーにおいては客体としてのプレイヤーは生硬になり、柔らかな作品世界に跳ね除けられてしまう。

「構成上あるいはその劇のような状況から欠落し、それぞれの人物に、それぞれが彼もしくは彼女自身であるための地位を与える。観者はともに、その芸術の内部に入るよう要請される」


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Rembrandt Harmensz. van Rijn『De Nachtwacht』

 エロゲーにおいてはマイケル・フリードの批判するようなミニマリズムとは更に異なった形で、客体性への開かれが重視される。フリードにとってエロゲーはミニマリズムなどよりも、もっと最悪に許しがたい存在と言える。客体性への開かれ、それ以上にもはや客体と作品世界との合一といっていいだろう。つまりエロゲーの触手はキャラクターと同時に、プレイヤーをも陵辱するものでなければならない。絵画における没入とは全く異なる形での演劇の場、観者=プレイヤーをも取り込んでしまう劇場自体の<没入>である。

 そこから導かれる服飾理論とは、三次元の世界から導かれた服飾理論が三次元的なように、二次元の世界から導かれたものである。単に想像し、信じるしかない、見ることもできないような二次元世界のエクリチュールが二次元服飾理論を導出する。二次元世界ではシャネルもスキャパレリも、またイブサンローランもコムデギャルソンも、どのような地位も与えられないし、また彼らが革新を与えることもないだろう。ただ「客体との合一」のみが唯一の服飾文化足りえる。またこれが「単なる絵」であるからといって伝統的な西洋絵画技法が特権を得ることもない。人が単なるタンパク質であるわけがないように、エロゲーは「単なる絵」ではない、他者なのだ。



 他者はその現れそのものとして<顔>を持ち、そのものを表象し始める。我々プレイヤーの視線へと彼らが与えられる時、その通路は「アレゴリー」を経由する。

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ishi kei『untitled』

 例えばこの究極的な達成として、石恵の絵はすべてが性の「アレゴリー」に満ちている。事実上としてこのトリミングされた一片ですら実用的だ。むしろこれですらあまりにも過剰に性的と言える。潤んだ柔肌が汁すら吸い込みつつ肉感を膨らませる。これは二次元におけるエピステーメーではないだろうか。この達成は三次元では起こりえなかった「肌」への革命である。「肌」すらも「アレゴリー」を通るゆえに革命され得る世界なのだ。


 三次元の服は肌のためにあるが、二次元では異なった形で同様と言えるだろう。しかし、彼らキャラクターは実際に服を着ているのだろうか?服もまた肌と同様、「アレゴリー」の透き通った光を当てられて表象される。常に「アレゴリー」としてそのものは現れる。またエロゲーの服飾文化として避けては通れない「乳袋」もこの透明な光を通してそのものとして現れたものだ。

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Saimon Misumi『Witch's Garden』

 「乳袋」の中に乳は、実際的にも存在論的にも存在しないだろう。(二次元なのだから当然)あるのは「アレゴリー」として、乳への兆候=シーニュとしてのみだ。「乳袋」を見た時に我々は自然とその中の乳を思い浮かべさせられる。もはや中の乳の存在は問題にならない。ただそれのみで性的な乳へのシーニュが予感される。何ら脱ぐ必要も、谷間を晒すこともなくそれそのものとして静的かつ性的なデザインとして自律し、観者は「乳袋」の内部へと没入する。


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Chisato Sumiyoshi,Satsuki Shinonome『Love, Election & Chocolate』

 またそのために、今日の三次元世界では廃れたコルセットもそれそのものとして性的デザインの合目的な自律性を保つ。「コルセットからの解放」などという三次元的歴史は何の権利も持たない。我々プレイヤーはコルセットを通して「腰のくびれ」というシーニュを予感するのだ。これもまた脱いで肌を晒す必要もない、それそのものとして自律する静的かつ性的デザインである。


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Mana Kazamatsuri『MIDSUMMER SNOW NIGHT』

 性的なデザインはそれそのものとして、静的(自律的)なデザインであり、観者との間に「アレゴリー」とはまた別の動的な層「文学性」を必要としない。





 それでは「アレゴリー」と異なる層「文学性」とは何か。これがその極みである。







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???


ひとまず導入部として一旦ここまで。次回は静的デザインの続きと対比しつつ「(感)動的デザイン」についての予定。
(ものすごく暇だったら)


・「アレゴリー」が極まった末に破裂する瞬間の一例
決して「アレゴリー」は全てを覆い隠してしまうものではなく、むしろ覆いの「疵ぐち」である。

好きなAV女優の乳首の色をペイントソフトで抽出してオ●ニーしてる
http://himasoku.com/archives/51747598.html



・エロゲー文化に未熟な一般読者に向けた参考図書

【エロゲ】ありえない制服/変な制服【ギャルゲ】
http://matome.naver.jp/odai/2132595466727677401

エロゲー服飾史、まとめませんか?
http://togetter.com/li/336096

エロゲの制服っておかしい
http://blog.livedoor.jp/insidears/archives/52541455.html

エロゲに出てくる変な制服
http://otasaga.blog16.fc2.com/blog-entry-121.html