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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















世界最速「コムデギャルソン/コムサデモード」論

 まだ誰もギャルソンとコムサの違いについて語っていないようなので僕が書きたいと思います。いやー、まだ誰もこの違いに気づいてないかな?かな?やった!僕が第一人者だ!(しにたい)


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 まずもってこの(議)論の問題点は当然、ギャルソンとコムサの意義をどう定義するかによるかと思います。僕は割りと素朴にこう定義して話を進めようかと思います。

  • ギャルソン → 「モードにおいて"カッコイイ"デザインの否定」
  • コムサ → 「モードの模倣と量産、大衆ビジネス化」

 ギャルソンがその価値を持つにはお約束として当時のモード世界のデザインの理念を理解する必要があります。当時のデザインとは「よりカッコイイもの」を求めていたイラストレーション的な時代でした。(もちろんこれは措定的な約束)派手さ・高級感などの追求、ブルジョワどもの高慢な精神を満たすおもちゃでした。それからオートクチュールからプレタポルテに移っても未だにその傾向はあったかと思います。「見栄えの良さ」を求める層が大衆に移っただけで、その欲望までは破壊されなかったかと。で、その浅ましい優越感ゲーム的なお約束を破壊したのがギャルソン……というのが一番ロマンチックで壮大な価値を持ち得るかと思います。

 コムサはとりあえずパクリブランドとしての定義が最もカジュアルかつ一般的でしょうか。その猛威をふるった時期はDCブランドブームかと思います。ちょうど同時代的に神のごとく崇められたコムデギャルソンとその名前すら模倣する企業努力と言いましょうか、デザイナーデザイナーしてるブランドの模倣デザインを徹底した企業的な手法でバラまきました。最近だと模倣デザインのバラマキは一時期はDiorだったりバルマンだったり、ネタ元には困ってないようです。

 偏見過多かつ些事は不勉強なため史実と反する部分も多いかと思います。ですがそれぞれの「理念」の部分はそこまで大きく相違はないかと思います。


 では、以上の話ではまるで見えてこないギャルソンとコムサの一致点を探していこうかと思います。端的に言えばどちらも「デザインの否定」と言っていいでしょう。一言で言い過ぎなため、もちろんその内実の差は海よりも深く山よりも高いかと思います。
 ギャルソンは「見栄えの良さ」的に素晴らしいデザインの否定としてわかりやすいかと思いますが、コムサはもっと複雑になるかと。それはつまり、コムサは果たしてモードなデザインを否定しているのか、それとも賞賛しているのか、という点は十分に検討されなければなりません。恐らくこの外延でギャルソンとコムサの比較検討的な批評が出てくると思います。ギャルソンはデザインのどこまでを否定/破壊したのかをまず検討し、それからコムサの話に移ろうかと思います。


ギャルソン的「デザインの否定」

 ギャルソンはファッション・デザインのどこからどこまでを否定したのか。ここでまず評価が大きくわかれるかと思いますが僕はアートの文脈から見たいと思います。なぜなら川久保玲は、否定的な態度を示しながらアーティスト然とした姿勢が垣間見えるためです。
 アートの文脈では、アメリカで40年代から抽象表現主義というのが流行りまして、この理念は「美術の否定」でした。だいぶ近いです。やっていることも大変近いです。抽象表現主義ではそれまでの美術で是とされてきた色彩や形態、技法を否定しました。ポロックがよく代表例にあがるかと思います。床に置いたキャンバスに絵具を撒き散らした作品が、未だにアート史上最高値なのはこの文脈に則った正しく批評的に価値のある作品だからです。
(実際、抽象表現主義といってもすごい大雑把かつ無礼な呼称で、ニューマンやロスコとステラ、ポロック、デ・クーニング、あとは親玉グリーンバーグが唯一認めたジャスパー・ジョーンズなど、それぞれまったく違うし理念も色々あって……話がずれるため省略)
 川久保玲はこの理念だけをそっくりそのままファッションに輸入してきたという説で進めたいと思います。つまりギャルソンが否定したのはファッション・デザインの色彩や形態や技法です。まさしく"あれらの作品郡"と噛み合うかと思います。そして抽象表現主義デュシャンウォーホールによって負けてしまった史実が意味することと同様に(ここも藤枝一派的には問題点多々)否定したのはその「見た目」の問題だけで、デュシャンが「網膜的」と批判した点は同様に引き継いでいるかと思います。クリエーションの神話までは否定していないのではないか、という点です。この神話が終わるにはファッションだとマルジェラの登場まで待つ必要があるかと思います。


コムサ的「デザインの否定」

 コムサは徹底的にビジネスです。初めからデザイナーの個人的な神話にはびた一文も出資しません。店内でビートルズや演歌を流すその美的センスからしてただの商売人です。それだけに「デザイン」にはある種否定的でしょうし、またある種で肯定されるかと思います。「良いデザインは金を生むデザインだけだ!ファッションは本当に地獄だぜ!フゥハハー!」な振る舞いです。それだけに神話は否定的ながらも、そのデザインの「素晴らしさ」については肯定しているかと思います。ただ神話の否定ながらもマルジェラと同じ方向性かと言うと、全く180度異なり、コムサはむしろ単なる近代的なものです。
 なぜならビジネスとはデザインと同じモダニズムに属する位相だからです。マクドナルドを「世界一売れてるものだから世界一良いものだ」と主張することと「世界一素晴らしいデザインは世界一良いものだ」は同じもので、単なる語彙の違いでしかありません。例えばコンセプチュアル・アートとしてウォーホールを見た時に確かに大量生産してばら撒こうという方法は、コムサにはある種見て取ることは可能ですが、ウォーホールの価値はそうした「ビジネス」ではなくそのビジネス自体を成立せしめるものをメタな視点から捉えた言わば「エコノミー」です。まさしくビジネスとはその意味において技法の一種でしかなく、コムサはこの技法の一信奉者に過ぎません。
 そのため「ビジネスにこだわること」と「デザインの素晴らしさにこだわること」は全く違いはないのです。


結論:ギャルソンとコムサは同じでした。

 はい、ということでギャルソンもコムサも同じでした。現代においては目くそ鼻くそです。マルジェラとその路線に続くデザイナーだけが現代において競い合う意義を持ちます。





<完>






結論その2:ギャルソン優位説

 些かこのようなドライな考察で済ますには後ろ髪を引かれて膝蹴りを食らうかのような気味の悪さがするので、もうちょっと続きます。続かせるためにはいくつかの定義を変更しなければなりません。


  • ギャルソン → 「脱構築的ファッション」
  • コムサ → 「モードの模倣と量産、大衆ビジネス化」


 そうすると全く別の話に変わります。つまりどちらも現代的であるということです。まず、あぁ…憂鬱な…、できれば触れたくないし触れられたくもない概念(概念じゃない)「脱構築」ですが、まぁそのなんていうか、デリダという哲学者(哲学者じゃない)がそういうこと言ってました。デリダはすごい人です。この概念(概念じゃない)もすごいです。技法です(技法じゃないです)。
 「脱構築」は非常に厳密な哲学的用語なので解説できません。解説してる風なwikipediaとかネットで出回ってるその言及は全部「まぁだいたいそんな感じ」なものなのですが、それでいいんじゃないですかね。どうせ誰も哲学自体に興味ないわけですし。なので振り切って話を進めます。以下の文責(分析)は僕の心情的に、僕は預かりません。

 ギャルソンを脱構築的なものとして捉えた時には、その活動は最上級にメタなものとなります。これ以上に根源的なものは無く、これ以上に時代制約的でないものもありません。そのクリエーション自体が「新しいクリエーションのチャンス」に繋がるものとなります。デザインのその内部に隠されてしまった破裂が、食い破るようにドレスのデザインを切り裂きつつまた新たなデザインへと世界を広げているのです。それゆえに我々の捉えているデザインとはこの「ギャルソンの時代」または「ギャルソンの地平」に広げられたものなのです。
 コムサのようなブランドもそれは同様に、ある種の意味でギャルソンによって切り裂かれた開口部から流れでてきたものです。幾つもの雁字搦めになったファッション・デザインの神話は「解体」され、そこから自由になった世界が、コムサの方法ですら許容する世界を産みました。

 というような結論でいいですかね?(おなか痛い)



結論その3:コムサ優位説

 ギャルソンを優位とするには些かの分派事大主義者として総括されてしまいそうなので、いくらか冒険主義に走っても見たいと思います。そのためには再び定義を変えなければなりません。

  • ギャルソン → 「モードにおいて"カッコイイ"デザインの否定」
  • コムサ → 「『模倣行為』の先鋭」

 かなり自説にひきつけながらの話なのでその謗りは甘んじて受けるものとして、これもまた煩雑な話になり本筋ではないので多く語ることは避けます。単なる模倣ではなくその抽象的な働き<模倣行為>としての視点です。
 ギャルソンが「デザインの否定」を発揮するとき、それはある種デザインの合理性の達成と破裂としての一面も持てるかと思います。抽象表現主義とはまさしくその意見も持っていました。美術において最も合目的な表現だったわけです。それと同様にギャルソンにもその一面を見ることは可能でしょう。「デザインは人間の身体に合わせるためにある」という合理性の果てに、そうであれば人間の身体を新しく作り出すような、あるいは全く否定してしまうような、そうした形であれば究極的にこの合理性は円環の形で達成されるはずです。
 であれば、それはまた同時にコピーされて流通することを要請するものです。なんせある種の形では合理的に最も優れているデザインなのですから。ギャルソンが世を席巻するためには是非ともコムサのような対立するデザインを押し出すわけではなく、ギャルソンを受け止め、そして横に広げる役割が必要なのです。
 つまりギャルソンはコムサに向かってデザインしているのです。コムサはその時ギャルソンのデザインを肯定的に<模倣>し、そしてそのことによってギャルソンはより強く合理的デザインの終端として輝くでしょう。この関係は相補的であり、コムサはギャルソンと対立しその価値を汚すような単なるパクリではなく、むしろギャルソンの真価が発揮されるには必要不可欠なのです。


総論

 いくつかのパターンを見てみましたが、ありえそうなのは結論2か3かなと思います。あるいはそのイイトコだけ取る感じか。1はあまりにもペシミスティック過ぎるので誰も言わないし、受け止められないと思います。

 と、ここまで書いてググってみたら千葉雅也先生が「コムデギャルソン/コムサデモード論」を書いているそうじゃないですか!驚いた!



 僕はギャルソンの実際的デザインについて言うことは、現代においては全くないかと思っています。あれはその理念を達成したあの一時代においてのみ輝いたもので、今は逆にまったく現代にそぐわないモダニズムに捧げられた殉教者のようなものだと思っています。そしてまたその企みは一面的にしか成功せず、マルジェラ以降のコンテクストの方が残った。純粋に理念的だったギャルソンは理念を達成させるべく実際的なデザインは全て燃やして燃料に変えてしまったせいで、理念抜きで言えばあんなデザイン消し炭でしかありません。果たしてそんな消し炭みたいなものをどのように語り得るのか、そうした意味では僕はとても期待しています。新たな視点から蘇りうるのか、またその要素だけでも残っているのか、前田敦子以下のキリストだって蘇ったそうなのですからありえるかもしれません。


前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

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