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服飾・美術・予言






















反省と粗忽

 これはきっと読まれないと思うものの、ほんの僅かなコミュニケーションに期待をして、自己弁明でもないために直接知らせる手段を取らずここに、ただ置くことにします。これは一つの反省文としての読解がなされることをのぞみつつ、僕の罪とはいったい何かを僕とあなたがたは知らなければならない。

 まずもって僕が批判したのは、むしろそうした存在論のありかただったはずです。その点で僕は全く同じ種類の人間であるはずです。つまり近代という「普遍的」についてです。だから僕の記述を引いてこなければいけません。
ベンヤミンやバルト流の、近代で失われてしまったような悲痛な面持ちと、その喪失感の回復。」
僕はたしかにこう述べています。
またこうも述べています。
「忘れられるために」
「忘れられなければならない」
たしかにこう述べています。

 僕はその意味を信じていただけるのであれば、まさしく憎い「普遍的」とは「忘れられなければならない」とたしかに述べていたと理解していただかなくてはいけないのです。しかしそれが忘れられない形で、失ったものとして思われてしまう「忘却」とは全く異なる「喪失感」は、喪失をするために、どうしても近代を必要とするでしょう。もちろんこの「近代」とは特殊な意味です。「普遍的な存在論」と呼ばれることもあった、そういった憎い概念です。それを失うためには、"それ"が求められなければならないのだから、その発掘と展示に似た行いについては、僕も全く同種の形で憎むものです。

 次にまた、僕は「警察的」であったことなどありません。なにせ僕にその権利はどのような形でも、現象学的だろうと実存的だろうと、一度だって与えられてはいないからです。哲学はその点で「公共的な概念供給源」として見ると、なるほど僕には取り締まれるものではありませんし、また誰しもがそれは取り締まれないのでしょう。この「哲学」を僕はもちろん抽象的なある特殊な意味として捉えています。決してデリダドゥルーズやラカンを指さないと。もし指すのであれば当然ながら「ドゥルーズ」がそれを嫌うこともできませんから。だからこれはもっと一般的な意味のもので、あるときは「ロゴス」と呼ばれ、また「ロゴス中心主義」として嫌われた、哲学者の名前を必要とせず語り得るものであるとして理解しています。また例え固有名的な哲学であったとしても同じく、前段のように僕の批判はあなた方と同じものなのだから、僕は警察ではなく(もちろんあなた方が警察でないように)単なる市民的で最も根源的な意味での「議論」でしょう。僕はあくまでも、各自としてしか生きられないような市民が許される程度に最低限度な「権利」に基づいています。

 以上でも、僕の罪はまだ明らかになりません。僕が糾弾されている罪とはどこにあるのか、それは恐らくその言内で指示されているように思います。
 僕が反省しまた謝罪できる範囲であれば僕は可能であるし、きっと約束として行います。しかし全く、償うことすら不可能な罪もあります。それが、それゆえに、全く「ドゥルーズが嫌った」と言い得るような、「存在論」としての「罪」なのでしょう。そしてこれを償うこととは、どのようにしても可能になりえない、すべて、一切を剥奪されなければならない極刑を超えての最も根源的な極刑が望まれなければならない。それも固有名が発するのではなく全く無私な領域で、例えばそれはちょうどキリストによる一切の救済とその存在の「死」のように、僕に「死」が与えられること、存在論的な抹消によってしか、この犯すことも不可能な罪に対しての償いとはありえないでしょう。その批判がこの完遂を望んでいるのかというと、僕には全く信じられることではありません。

 僕はその口調や手振りについてはいくらでも謝罪することを約束できます。それは感情の表現である限りは記号論としても、もちろん交換可能だからです。だから僕は謝罪できます。しかしまたそれも僕には信じることができません。疑問があまりにも巨大な隔たりを作っています。なぜドゥルーズの名が必要であったのか、またその批判自体がなぜドゥルーズの言葉によって書かれているのか。僕はこのことが全く信じられないのです。あなたがたは僕をすっかり、自分の罪すらも正しく認められない状態にしてしまったのです。


 これは決して悪意など到底含んではいないものです。もっともこの「他意の無さ」については僕は何度も表記を行なっていますが。それでもなお僕はこのような表現をとってこのような文章を書いたことそれ自体は、完全に僕の悪い点であり、申し訳ないとは思っています。それでも書いた理由として是非とも信じていただきたいことは、これは前述の疑問が全く僕の哲学において理解されるものではないからです。不愉快にさせたのであれば僕は謝罪を、確実に約束できます。元から本当に全くもって他意はないのですから、誤解によって、僕の表現の悪さが原因として、僕は自分の固有名において謝罪をします。しかしそうでないように、僕には(信じられないまでも)見えてしまったので、このようなものを書きました。似非哲学者と罵ることもロマン主義と言われることも覚悟の上で、それではやはり僕なりの可能な方法は、これしかなかったことを最後に言及させていただければと思います。