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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















disを多角的に検証する「相対性『相対性コムデギャルソン論』dis論」

 在宅ファッション批評家諸氏も待望の一冊『相対性コムデギャルソン論』が出版とあいなりまして『fashionista』に続き旋風巻き起こるかと思いきやそこまででもなく、有名ブロガー諸氏も傍観を続け「いったい誰が最初に頭を出すか」という塹壕戦の様相を呈していますが(一人だけS気の多いビーストモードな方も)皆様はいかがお過ごしでしょうか。発売は去年の12月17日ということなのでだいぶ経ちますが、この「なんとも言えない」感が漂っている原因はなんでしょうか。ずばり言って、ファオタは冬のセール時期なので余裕がないのでは?と最近もしドラを読んだ僕はマーケティング考察してみる次第です。

 それにしても特に目立った賞賛も反発もそんなにないのは(一人だけS気の多いビーストモードな方もいますが)少し意外な気もします。ギャルソンですよ、ギャルソン。あの吉本隆明プロが認めたただ一つのブランドですよ。これは祭りになるだろうと埴谷vs吉本の論争など漁って待ち構えていた僕の努力は……。というわけで本来予定していた埴谷vs吉本ギャルソン論争の記事は放り捨て『相対性コムデギャルソン論』へのdisを多角的に検証する「相対性『相対性コムデギャルソン論dis』」を行なってみたいと思います。

 目立つdisをツイッターの検索機能と観測範囲の限りで勝手に恣意的に適当に抜き出してみます。

  • 「机上の空論」
  • 「言葉のひとり歩き」
  • 「文字がびっしり」
  • 「タイトルがださい」
  • 「disがぬるい」
  • 「デザインを無視している」

 これらdisは主として2つに分類できるでしょう。

  1. 「あまりにも哲学・思想に寄りすぎていて難解」=高踏趣味dis
  2. 「デザインについての考察が良くない」=デザイン論dis


<1> 高踏趣味dis


 流行の兆しを見せるファッション批評に対する疑義はこの「高踏趣味dis」が大勢のように思います。確かにfashionistaにしても相対性ギャルソン論にしても、批評に使われる「理論」は哲学の中でも特に難解かつ韜晦な現代思想なのでこの疑義は全く当然のものでしょう。なぜこんなにも難しい言葉ばかり使っているのかと不満を持つ方は多いかと思います。大雑把に言えば、文芸批評や社会評論の伝統的「批評」がフォーマットをそのままに「ファッション批評」として新鮮味を伴い横滑りしてきたからです。なので大変複雑かつ歴史のあるフォーマットで、文芸批評等の経験者にとっては懐かしさを感じるものもあるほどですが、今まで批評の無かったファッションというある種の「村」にとっては黒船来航に近い趣もあるのかと思います。無論周辺ジャンルが思想・哲学を取り入れつつ発展していった時代において「ファッション」だけが村に閉じこもっていたせいで遅れているという見方も確かにでき、その点でいくらか怠惰過ぎたように思うものの現状率直に言って「そこまで難しくして語る意義はあるのか?」という反発は正当な声でしょう。
 例えばファッションに「脱構築」はあったのか?あったとしてそれは哲学的意味での「脱構築」なのか?でなければどのような意味で「脱構築」は使われているのか?それは「脱構築」としか言えないことなのか?もっと簡便な言葉で語れるのではないか?そうした検証作業が批評と消費者の信頼関係を築くように思います。

 ファッションにも批評の到来を願ったものの、いざやって来たらコレジャナイ感。黒船と言えば、グラビア界の黒船ことリア・ディゾンのデキ婚ショックから未だに立ち直れない僕としては痛いほどその心情わかります。


<2> デザイン論dis


 ファッションデザインやデザインの体系的な解釈など、実際的なデザインに対する「デザイン論」が無視されている原因とは、<1>の話から引き継ぐ形で言えば「横滑りしてきた」からでしょう。色んな分野の専門家が寄り集まってファッション批評をしているため、元来からのファッションデザイン専門家(いるのか?という疑問は置いといて)がいないのでは仕方のないように思います。
 例えば美術評論ではジャーナリスティックな評論は「時評」などと蔑称的に呼ばれ、哲学・思想を駆使してアカデミックに語る美学系とは住み分けられています。この時評家はたいていアーティストの周辺知識のみで美術を語り作品については全く触れないといったこともあります。Vogueなど雑誌の記者が語るコレクションのレポートなどはまさにこの時評の典型でしょう。かといって美学系の批評家はデザイン論的に「形態」を語るかというとそうでもなく、良くも悪くもアカデミックすぎて実際とは見合わない「机上の空論」も多々あります。
 現状はこの意味で雑誌的時評しか無かった世界にアカデミック系が殴りこみをしかけてる場面ですが、こと「デザイン論」の綱引きではいくらかまだ時評の方が真面目に「服について語っている」ように見えるのは確かでしょう。その有効性についてはともかくとして、ですが。

 ギャルソン以後のデザイナーを挙げていく批評家はある意味で美術的にも強度を持ち得るようなmintdesignsやYasutoshi Ezumiなどを不当なまでに無視して安易な"コンセプチュアリズム"としてアンリアレイジやwrittenafterwardsを優遇しているのではないか?この優遇は単なる「デザイン論」という困難の回避のみならず、むしろこの回避に"現代的"を意味するバッジを与えるものなのではないか?そうした疑義が解消されることはあるのでしょうか。このdisは<1>とも絡みつつ、とても根の深い問題なのでとりあえずはぐらかしておきます。


「相対性『相対性コムデギャルソン論』dis論」


 あまり個人的意見を挟まず相対的に概括してみたのですが、「相対性コムデギャルソン論」へのdisはとても真っ当に行われていてヒステリックなものはありませんでした(一人だけS気の多いビーストモードな方も含めて)。しかも批評側にとってクリティカルな問題のように思います。

 僕自身はどちらかと言うと思想・哲学側なのですが、過去にも何度か批判しているように過度な「思想化」は全く有効ではないどころか害ですらあるでしょう。果たしてこの「思想化」がファッション批評の「理念」だったのか、それはわかりませんが。


個人的『相対性コムデギャルソン論』dis


 何を達観視して悦に入っているのかと言われてしまいそうなので、以前ツイッターでも語った感想を再構成して載せようかと思います。一応焦点を70年代ギャルソン論に当ててはいますが基本的には総評としてのものです。



 70年代ギャルソンが「かわいい」服を作っていたという論は、川久保オタクによる川久保オタクのための「作家論」じみたものではないだろうか。これは歴史をまさしく"相対化"してしまうものとして「相対性ギャルソン論」の象徴的なものではないかと思う。例えばピカソには青の時代があったし、ゴーギャンにはタヒチの作品がある、ポロックには心理主義のころもあった。しかし、それらが重要でないとして一体何が問題なのだろうか。むしろそれらが重要でないことで、いっそう創造のための批評として意義を果たすのではないか。


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 一例としてこのゴーギャンの絵を挙げようと思う。十分に名画と呼ばれているように思うが、それは「タヒチに行った画家」というオリエンタリズムの記念碑的な評価なのではないか。最も強く左の女性が着る赤い服が目をひき、これが茶褐色の男の背中と僅かだが関係を持つ。しかし単純な色の結びつきではなく服のシワが陰影を作ってしまいそこで流れは緩やかになり、隣接する体の輪郭線がついには一時的に色を沈黙させてしまう。この絵にはこうした色と線の不協和音がそこかしこに見られる。右下の黄緑がかった腰布と関係して男の左肩から女性の右肩に僅かばかり載せられた同じ黄緑色のその終端として構図上用意されたのだろう果物を持つ手は、親指の爪まで描かれ陰影を濃くし腰布と同じほどリアルではあるが、右上のぼんやりとした色の塊でしかない草むらにまで結ぶ三角形の関係にとっては不要どころか妨げる効果しかない。代名詞のようにゴーギャンといえばタヒチとなるが、その「タヒチの絵」とは記念碑以上に優れたデザインや文脈上の意義があるのだろうかというと疑問がある。

 これと同様の「まず巨匠ありき」の批評という過ちがギャルソンにも言えるのではないか。ギャルソンはたしかに「かわいい」服を作っていたが、それはどのように意義を持つのだろうか。「ギャルソン=かわいい」論が固定化されたギャルソン評価に別の視点を取り入れる、というところまで十分に考慮してもそれは「コムデギャルソン史」あるいは「川久保史」と呼ばれるようなものであってそれはギャルソンのために用意された歴史になるだろう。そうではないとすると、ファッションのモード歴史文脈史上のギャルソンの相対的な位置づけとしての歴史ではなく、ギャルソンへの消費者イメージを相対化するに留まるかもしくは歴史文脈をテーマ史的に区切った中でのかわいい史としての読み直しとして、モードを離れる必要があるのではないだろうか。

 総評としてまとめて言及すると、無論これはとても古典的な美術評論家的姿勢であえて言うものとして、この「相対性コムデギャルソン論」の執筆者達はまずはじめに「服」とその「デザイン」を見ているはずなのだが、あたかも絵画をタイトルとその歴史だけで論じる"新しい"評論家に接近しているのではないだろうか。硬直したアート批評では新鮮味を持ったが、その硬直化した近代すら持たないファッションでは混沌に混沌が注ぎ足されただけのように見える。彼らの批評の新しさと創造性を保証する「古さ」とはいったい何であるのか。またそこに「服」は伴うのだろうか。

 それではギャルソンをファッションのモード歴史文脈上にどのように位置づけられ得るか。一つ盛んに言われる議論として「ギャルソンによって身体が乗り越えられた」としてモダニズムの終焉を云々するのであれば、例えばメンズであればウォルターの服の上に載せられた平面的なコードとしてのイリュージョン的な身体はどのように評価するのだろうか。またラフ・シモンズは身体と違った形で立体的イリュージョンを含んでいるのではないか。ギャルソンには抽象表現主義の血が混ざっているのだろうが、それでモダニズムの到達地点と呼ぶには疑義がある。ファッションにおけるモダニズムとしてふさわしいのは古着のその原型において明示されていないものではないか。ギャルソンは身体の克服というよりも、むしろアクションペインティング的に近いのではないか。それゆえに未だウォルターのようなその先の新しいモダニズムとして評価され得る表現も残されているのだろうし、アンリアレイジのように劣悪な"コンセプチュアリズム"を許しているとするのがより正しい評価のように思える。

 ギャルソンを語ることは今やとても安全なことだろう。僕のような若者がその名前と歴史を知った時には既に悪評が目立っていた。神格化をとうに超えて単なる名産品的な消費物としてしか見たことがない。ここまで安全なのはまさにこの名産品としてなんとなく成立してしまい、歴史文脈において厳しく位置づけられてはいないからなのではないか。抽象表現主義と結びつけて語るにしても部屋にポロックの絵を飾るには相応の審美眼を伴い歴史文脈の知識を必要とするがギャルソンにそれはあるのだろうか。ともすればwikipediaやネットで「15分」で知ることができしかも得意げに語れるだろう。ウォーホールの価値は当然認めなければならないがそれ以上に「大衆文化にも関わらず芸術」であるという浅さを誇るようなルサンチマン的評価と同様の下心が最も多く潜んでいるブランドこそ、まさにギャルソンのように思う。新しさと創造性のための批評とは、こうした安全さとは無縁の冒険によるものだろう。