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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















エディ・スリマン論 序章だったもの

 トレンド欠乏症にかかっていたメンズ・ファッション界ですが、エディ・スリマンの復帰でにわかに盛り上がりを見せているようなので、僕もこのビッグウェーブに乗りたいと思います。

以前にツイッターで書いたことの加筆修正版となります。
そのうち本格的に論じる予定のため、とりあえず波に乗るだけ乗るということで。


 エディ・スリマンについては語り尽くされたようにも、まだ語られていないようにも思えます。
少なくとも僕がファッションリテラシーを身に付けだした時には既に流行っていて、街には掃いて捨てるほどの「Dior風」があふれていました。
僕はというと、なるほどモードとはこういうものかと、雑誌の掲載にうなずく程度で思い入れと呼べるものはあまり無いように思います。
ぼんやりとそんなお祭り騒ぎを眺めていたわけです。
しかし神輿に乗っかっている肝心なモノはついぞ見えてこなかった、
ほとんどの人がそうである程度に、僕もまた全く見えてこなかったわけです。
それでいつの間にか、伝説的とうたわれるようになっていったのはご存知の通りでしょう。
エディ・スリマンについて語ることは、こんな経緯からかいまいち恥ずかしいような、むず痒いような感じがするのです。
たしかに、優秀なデザイナーではない。
と後々に語るべき結論を言っておくにせよです。
流行とは常に軽率です。
たしかに優秀ではない、けれども語っておくべきデザインがいくつかあって、これは軽率とは断絶しています。
踊る阿呆に見る阿呆は阿呆でしょう。
しかし批評する阿呆とはどれほどの阿呆なのか。


 一人のデザイナーを語るというのはなかなか難しいものです。
何について語るべきか。批評の主題選びは大変難しい。
とにかくエディ・スリマンの「何か」について語る必要があるでしょう。
例えば彼の「テーマ」と呼ばれるものとか。

そういえばよく語られるエディ・スリマンのテーマ「少年性」と「ロック」とは何のことでしょうか?
初出もよくわからないのですが、その意味するところは更にわからないものです。
ロックなファッションというのがどのように定まっているのかを知らず、また少年のファッションとは学校でユニクロを着て人とかぶらないかと怯えるものでしかない一般的日本人にとって、これはなかなか難しいテーマのように思えます。
きっとロックと言っても人間椅子あぶらだこは違うのですよね。
恐らく元ネタとなるお手本があって、それとの距離感でロックっぽいとかぽくないとか判定がなされているはずです。

で、諸作品の価値をどのように見出すかのというと、ロック(少年性)が巧みに表現されていれば良いとはならない気がします。それならお手本そのままで事足りるはずですから。
テーマ自体が価値の提示になっていてその達成に意義はあるとしても。
ロックはあくまで雰囲気作りのレトリックで、本質的には違うところに価値がある、とするのでしょうか。
そうするとテーマの価値は単なる注釈に過ぎないか、あるいはデザインがあまりに抽象的なために連想を抑制するとか、そんなところに落ち着くように思います。

とは色々と考えを巡らせてみたものの、ロックでも少年でもない凡俗の人間としては、餅は餅屋と言いますし、ロックな少年という「本場」の方が認定するならそれでよし、くらいの姿勢で避けて通るのが誠実なように思います。
特に、シーズンごとに"テーマ"が使い捨てられるファッションにおいて、批評の"テーマ"にまで雑誌の煽りワードと見分けのつかないものが使われるなら、それは一層「本場」のファッション批評になることでしょう。


 また別のアプローチ例として「どのように受容されているか」はどうでしょうか。
なにせすべてのものは作られた時から受容されていて、人気を別にすれば受容されてないものなどないのですから。

エディ・スリマンは概して「リアルクローズ」と言われがちですが、リアルクローズとは難しい。
現実的に着られるものとはどういうことか。
言葉としてあるのだから、リアルクローズなものとリアルクローズでないものがあるのでしょう。

「田舎ではこんなの着られない」
「サイズが小さすぎて着られない」
二つの例を提示してみましたが、その場の状況のせいで着られないことと、サイズのせいで着られないことは別れるような気がします。
しかし別にサイズが合わないでもパツパツになりながら出歩くことは、実際にそういうおじさまがいるように可能でしょう。
恥ずかしくて出歩けないなら状況の話になります。
着るだけならなんだって人は着られるわけです、ズタ袋でさえ。
「着られないものを作る革新性」というのがあるとしたら、それはもはやエスパー伊藤との勝負なのではないかと。
エスパー伊藤ではダメとなると、結局のところ社会状況がそれを許してくれないという話でしかないのかと思います。

リアルクローズ」の考察はややめんどうなことになるので一旦避けてそのうち語ろうかと思います。老後までには。
ともかくこの言葉は、とても迂遠な言葉のように思えます。
まずどのような定義で、どのように使用するかで議論が必要でしょうから。
そしてその観点が社会学的なものでしかないなら、デザイナーとはなるほど社会学者か革命家であったと知ることになるはずですし。
何か意味はありそうだけれども、考察に使ってみると何も新しい視点が生まれない言葉とはどこにでも転がっているものです。


 唐突ですが、批評の批評という不毛なものに陥り出したので一旦ここで筆を置きたいと思います。
次の記事では具体的な批評に入ります。