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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















【SAINT LAURENT】ファッションの、ジェンダーの、デザイン。 ~エディ・スリマンの表現~

エディ・スリマン論 序章だったもの
http://fff.hatenablog.jp/entry/2013/02/11/120523


 ブログという媒体のために前記事ではしようもないことになってしまった。
紙面を新たに具体的な批評に入っていこうと思う。
脳内の構想では、ひとまずエディ・スリマンを導入に語り、その後atoやmintdesigns、JWアンダーソンにまで手を伸ばすつもりではある。
「生物学的な性差などない」などと言われるようにジェンダーの議論は哲学的かつ複雑だが、それにしてもデザイナーはこの「性」というものを抽象化して表現せねばならない。
ファッション批評の領分としては、議論よりも実際的な表現がどのように行われているかを取り上げる必要性があるだろう。
しかし、果たしてブログという媒体でそれが可能かはわからない。
そういうわけで細切れで簡易なものになるが、今はエディ・スリマンの特に復帰後のレディースとメンズについていくつか見ていこうと思う。



 メンズについては過去の例があるためにそれと比べてうんぬんと語ることは容易いだろう。
「エディらしい」
「変わっていない」
しかしレディースについてはそういった安易な手法ができないためか、誰もが口を閉ざしたのではなかったろうか。
メンズの「賛否両論」と違い半ば黙殺か、恐る恐るといった風情すらあった。
そういう時に出やすい言葉はだいたい決まっているものだ。
経験の乏しさは新しいものに口をつぐませる。
全く未知であってくれれば手放しでほめるのも容易くなるのに、ちょっとした繋がりがあるように思えるとその疑心に暗鬼が宿ってしまう。

ここで解かれるべきは、この一連の関係性についてだろう。
つまりエディ・スリマンが何を表現してきたのかということだ。
一貫性があるようにもないようにも思える。
うまく繋がらない曖昧さに対して、「中性的」や「無性的」などといったそれ自体曖昧な言葉をかろうじて接着剤に使う時、人は視力を一気に無くす。
もはや何を見ても曖昧にしか映らない瞳とは盲目となんの違いもない。
視力を持ち続けようと思う限り、しっかりと見なければならない。



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look[38]

 はじめに、あえてレディースから取り上げるべきだろう。
なぜならメンズでの称賛とは、もはや歴史問題である。
感情的にならず語ることができなくなっているからだ。
これは単なる煽り文句ではなく、まさにレディースにおいて明かされる事実である。
エディ・スリマンを見る時、誰しもが感情的であったのだ。

上記のルック[38]を一例として取り上げる。
外の輪郭線(ライン)は直線的で裾にもたるみはなく垂直に地面へと向かっている。
肩のファー(?)は帽子のおかげか下半身にまでは影響を及ぼしていない。
ただ載っかっているだけである。
この直線による構成には二つのスリットが使われている。
一つ目は裾の扇状のものである。
裾を垂直なままに制御するとともに、起点の太ももへ視線を引っ張り重心を整えている。
二つ目は胸元のスリットである。
このディテールは他ルックでも多用されており[29][31][37][52][54]は同型と言っていいだろう。
変形としては[4][10][43]なども挙げられる。
実質的なデザインの効果はどれも同じである。
レディースのデザインは否応なく胸をフックになされてしまうが、このスリットはそれを避けている。
曲線という女性美を表現せず、膨らみにならない胸骨をなぞるような歪んだ棒状でしかない。
こうした胸元のディテールについてはmintdesignsやYasutoshi Ezumiなどと比較して論じるべきであるが冗長になるため避ける。
しかし通常の"優秀な"デザイナーとは外側(ライン)で女性らしさを作らなかった場合、内側のディテールで表現を行うが、このルックで言えば直線的なラインかつ、ディテールもまた直線的である。

他のルックを見ると基本的には直線的なラインと、"取って付けたような"シフォンやレースで構成されていることに気づくだろう。
これが批判されるような、退屈な構成の元になっている。
かろうじてレディースのデザインに仕立て上げようというエクスキューズが見て取れるだろう。
あくまでもデザインの芯には直線があり、形状でそれを崩していない。
わざとらしい"取って付けたような"リボンとレース使いが、つばの広い帽子もまた、静まり返った服を見栄え良くするための「飾り」である。
総じて「失敗」を取り繕うという消極的なデザインと言えるだろう。
人気が芳しくないのも、致し方ないように思う。
レディースのデザインとしては、女性の肉体という豊かな素材を全く活かしていないのだから。
しかしこの「優秀なデザインではない」という「失敗」が時には意味を持つ。


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look[30]

 問われるべきは、そのデザインがなぜ必要なのかだろう。
エディ・スリマンによるメンズのデザインはその点で問いが多い。
デビュー頃はラフ・シモンズにも類似するような禁欲が散見されただろう。
それらはいつしか対極的な「ロック」という娯楽な調子に塗りつぶされていった。
塗りつぶされはしたが、失われたかどうかを見極めるために問いは必要なのだ。

ルック[30]では一見して平凡なスタジアムジャンパーが目立つが、単に平凡なのではない。
デザインについての「ラインが美しい」とか、細いとか太いとかいった大味な言葉こそが平凡なのである。
平凡から隔離される理由として、肩口の白い切り替えの中央に黒い線が引かれているのだ。
もちろん「おもしろいデザインだから」と珍奇を誉めそやすような、愚にもつかないことを言っているのではない。
切り替えだけで十分に肩口にアクセントが置かれるが、この線によって頂点は曖昧になっている。
服の下の身体上の頂点は切り替えの最も外側に符合するだろう。
肩幅はわずかだが白の地が続く分量の関係で狭くさせられるが、しかしそれを引き戻すように、線が内側に別の頂点を作っている。
単に狭い肩幅を表現するのであればレディース的だが、線によってこの服のジェンダーはどっちとも言えないような、なんとも居心地の悪い宙吊り状態にあるのだ。

この一本の黒い線は計算に基づくものかはわからないが、それなりに独特の意味を獲得している。
またこうした線によるデザインが特徴的なブランドとしてmintdesignsが挙げられるだろう。
しかし都合上ここで触れることはできない。


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look[35]

ルック[35]はジャケットの豪奢な金の刺繍で特に見栄えは良い。
しかしデザインとして冷静に見れば、やや下品に転じてしまう。

前景に迫り出す金と後景に退く黒の対比によってジャケットの内部で分裂がある。
金の刺繍が浮き上がってしまい黒の地と分かれている。
肩へ向かって黒の地を三角筋のように切り離すが、しかしあまりに大仰な形のため、怒り肩のような出来の悪いラグランスリーブを思わせる。

このデザインはレディースの方で語ったように「失敗」のデザインと呼べるだろう。
直線的なラインと相乗的になっているが、しかしジャケットの内側で既に分裂してしまっているように、身体とはほとんど無関係な形で「取ってつけた」ものである。
レディースにおいてリボンやレースで行ったように、メンズではそれが金の刺繍に変わったのだ。
いわば「飾り」がメンズにおいても多用されている。
このような「飾り」は他のルックではストールであるし、羽織のコートでもある。
飾りは構成の調子を整えはするが、[30]のように何か身体への攻撃を及ぼすものではない。
[30]の失敗と呼べるものは肩の頂点がズレているため微妙な違和感を覚えさせる点である。
しかし飾りは違和感を隠すための失敗であって一旦は分けて考察されるべきだろう。


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look[42]

ルック[42]は今回のコレクションでは最後のものである。
他のルックと比べて特にひねりが加わっている。
またジャケットの概形は過剰なまでに直線的であり、ルック[35]と近いように思える。
チェックシャツでの構成も似ているため、穿った見方をすれば同時期か変形として何らかの関連性があるのではないだろうか。

[35]では穏健なものだったが、[42]ではジャケットの裾が奇妙に尖ってチェックシャツと激しく分裂している。
単にジャケットがシャツの上に載っかっているだけという風情すらあるだろう。
シャツは量感のある生地で、またチェックという柄のためにこの分裂をより強くしている。

しかしシャツの丈がチュニックのように長いにも関わらずレディースに傾かない、あるいはレディース的としても異様に生硬な印象を持つのは、柄の作る流れとそれを補助する生地の質量のおかげだろう。
柄に注目してみるとどの線も歪みなく垂直と水平で、その表面はぼんやりと平坦に広がっている。
また女性であれば重心の置かれるべき腰のくびれに相当する位置は、ジャケットの裾が下へと指示するために重心になっていない。
このルックにおいて最も強く指示される部位とは、流れていってしまうジャケット裾の先と、茫漠な流れの先のシャツの裾になるだろう。

パンツについても言及すれば、上半身よりもむしろ強く位置を主張している。
基本的にはレディースで多く見られる工夫ではあるが、ジョン・ガリアーノのようなゲイ的デザインにはパンツの外縁を切り替えなり柄なりで縁取るものがある。
その縁取る分量だけ足を細く見せられるためだが、このパンツにおいては断片的である。
太ももの極一部のみがそう言える。
膝の皿にはその輪郭を描くようにジップが配置され、唯一積極的に骨格を強調するデザインとなっている。
脚部が重心を主張する必要性などまったく無いにも関わらず、唯一の積極性がここにある。

一旦ここで言及するとこのチェックシャツの身体上の位置を見ると、以前ブログで触れたものだがジル・サンダー2013SSの[16][18][36][38]に近いものが見られる。
抉るような切り替えが身体の中央に走り、ポケットのフラップ下から広がっている。
もちろん違いも多いが、それでも身体上で及ぼす効果は似ているだろう。


 こうしてレディースからメンズにかけて論じてきたように、エディ・スリマンのデザインには常に「直線」と「飾り」がある。
そしてこの直線は単に造形的ではなく、というより必然的に造形上の「失敗」に覆われてしまうのだが、ジェンダーに訴え得る力が秘められている。
「無性的」という言葉を使うことが許されるならある程度は相応しいだろう。
しかし無性とは現実にはありえないものだ。
性との闘争を伴うファッション・デザインにとって、無性を標榜することは逃避に近い。
事実、大きなパーカーを着てそれで無性となるのであれば、実に美意識に欠けているという意味で無性と呼べるだろう。
布団にくるまっていればそれで良いはずだ。
しかしそれが許されないためにデザインが必要とされ力を持つのではないか。

女性美と男性美はそれぞれ概念上はともかくとして、デザイン上は逃れられない。
これを超越したというのであればそれは美しくないという点で、女性美にも男性美にも属さないというだけのことである。
エディ・スリマンはその点で果敢だろう。
難題ゆえに失敗をしているが、いくつか見て来たように「宙吊り」にしてしまうデザインの力を見て取れる。
あたかも身体と服とを抽象的にしてしまうような力である。
ここでは最近のコレクションのみを扱ったが、リヴ・ゴーシュやDior homme初期のコレクションにも未熟ではあるが片鱗は伺えるように思う。
例えば最近のJWアンダーソンにもそれらは近い。
退屈と失敗のため、優れたデザイナーであると手放しでは言えないが、ジェンダーを問題にするデザイナーには多くのヒントがあるのではないだろうか。
この一貫した挑戦は、移り気であるほどアヴァンギャルドの大家を名乗れる国内事情を鑑みると敬意に値する。
恐らく今後も一貫したそのデザインは人気を保つように思われるが、群盲が象を評するような不毛と悲劇に沈まないよう祈るばかりである。



 今回はひとまず「ジェンダーの、デザイン」を焦点に論じたために、取りこぼしと先急いだ部分は多い。
ブログという媒体は全く向いていないように思われるが、何らかの形で行われることを我ながら祈るばかりである。



【参照用】
Saint Laurent 2013SS
http://www.fashionsnap.com/collection/yves-saint-laurent/saint-laurent-women/2013ss/

Saint Laurent 2013FW
http://www.style.com/fashionshows/review/F2013MEN-YSLRG

JIL SANDER 2013SS
http://www.fashionsnap.com/collection/jil-sander/mens/2013ss/