Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















【読書レビュー】ファッション批評誌『vanitas』No.2(旧名:fashionista)とはなんだったのか?前編

『vanitas』No.002 目次

foreword

interview

  西尾美也

  北山晴一

  ここのがっこう

 paper

  南後由和

   陳列とキュレーション── ユニクロ、コムデギャルソン、デミアン・ハースト

  成実弘至

   21世紀スローファッション試論

  津田和俊

   生きのびるための衣服

渡辺洋平

   衣服論事始め── 衣服と時間あるいはメゾン・マルタン・マルジェラと反時代的なもの

  小林嶺

   まなざしに介入するファッション──「ショー」という観点から

関根麻里恵

   リアルクローズ化する「マンガファッション」(公募)

 

international perspective

  研究機関紹介(IFM)

  展覧会紹介(「衣服は現代的か?」ほか)

  書籍紹介(『着衣のヌード、脱衣のヌード』ほか)

  研究者紹介(『vestoj』)

 

critical essay

  星野太

   ハトラ──「中性的なもの」の力学

  蘆田暢人

   「雲のような場所」を巡って── ASEEDONCLÖUD試論

  HACHI

   JUNYA SUZUKI / chloma ── ネット以降の時代

  三村真由子

   Ka na ta の身体を活かす服(公募)

afterword

《転載元》

http://fashionista-mag.blogspot.jp/

 

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「日本にはファッション批評がない」

「ファッションは文化として認められないことがよくある」

「ファッションに批評は合わない」

――という嘆きから本書『vanitas』の《序文》ははじまり、

「とはいえ、批評の不在を嘆いても何も始まらない」

「これらはすべて批評の構築のためにある」

「この『vanitas』という小さな一歩が、大きなうねりを生み出すことを願う。」

――という宣言で《序文》は締めくくられる。

 この《序文》はいったい誰が書いたのだろうか?《後書き》には「水野大二郎」「蘆田裕史」という編集者両名の名前が記されている。しかし《序文》のどこにも人名は見あたらない。

もちろん実際に誰が書いたのかという推測は99%正確にできる。それでもあえて、いったい誰が書いたものかと問うならば、この無記名の嘆きと宣言は「誰か」によって嘆かされ、「誰か」に向かって宣言されたものだと僕には思える。そして「誰か」とはもちろん「我々」である。

ではそのような「我々」は、嘆かせた責任と向けられた宣言にどう応えるべきか。あまりに重い課題である。せめて、ただこうしてレビューを書き連ねることくらいしか今のところの僕にはできそうもない。また同時並行で販売促進祈願も可能だろうから、そのくらいはやっておこうとひとまず思っている。

interview

 V(vanitas):「西尾さんが度々用いる言葉である「装い」はどのように定義づけていますか。」

西尾美也:「「装い」は、身体に加工を施す行為とその様態を指し…この世に生まれ落ちた姿のままである「裸」の不可能性…たとえ一糸まとわぬ部族がどこかに見いだされたとしても、その人々はある種の髪型を持ち、ある種のつめの切り方をし、歯や皮膚にある種の加工を施していたりする。そういう意味で、身体からどれだけ装いを取り除こうとしても、人間は社会的身体、または文化的身体として常に何かを装っている状態から免れない…。」

 そういえば最近どこかで「"ファッション"と"装い"は違う」という話を見たと思ったら、もしかしてファッションとの関係の問い直しを目論んでいるらしい某氏の影響ソースはここからなのだろうか、なんて詮無いことを考えながら読んでいた。 西尾美也の作品はとくに理由を考えたことはないがおおむね嫌いである。アートとファッションの関係ということもインタビュー内で語られるが、僕の嫌いな理由をそこで発見した。流通やブランド、ビジネスとしてのファッションを語りサイトスペシフィックな多様性を唱えるが、ここがおかしいのである。もちろんサイトスペシフィックの最小単位は個人だろうから当然「自分で自分の装いを作る」ことが多様性の最善の状態だろう。大量生産の時代以後の消費社会を考えるならもちろん「「選択」することで自分を「つくる」」ことになるわけだが、それだって立派な個人・個性であるし、むしろ何も選ばずに「つくる」ことは可能なのかと問わなければならない。「自分で自分の装いを作る」ことの困難さとは、すなわち「「裸」の不可能性」の意ではないのだろうか?

「つまらない大量生産やコピーを抑えて且つよいものを残し…」

僕にとってつまらないものは彼のような個性の作品であり、残されざるべきは"おもしろい"ものである。

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 新しいファッションへの道は?

北山:「他方、ストリートファッションを強調する人は、かなりポストモダン的な考え方に近いと思えますね。私たち自身が内部に抱えている階層化意識みたいなものを見ない振りをする。」

(略)

蘆田:「先ほど「ハイファッションの力を侮っているのではないか」というご指摘がありましたが、具体的にはどのような力を想定されているのかについてご質問してもよろしいでしょうか」

北山「お答えになるかどうかわかりませんが、いま銀座松屋の東角の部分をルイヴィトンの店舗が占めていますね。それが、今度増床するに当たって、中央通りの壁面を大幅にヴィトン化するようです。この現実を見ないわけにはいかないでしょう。」 

  北山晴一インタビューは、恐らく『vanitas』読者にとって冷や水である。蘆田氏が國分功一郎-ボードリヤールを持ち出して「消費と浪費」を語ると、北山氏は「懐かしいですね」と返す。社会とファッションの関係にしても、ストリート文化を決して手放しでは礼賛しない。シャネルやヴィヴィアンウェストウッドについては「企業に回収されていくという仕組みそのものは変わらない」と言い放ち、「ストリートファッションのなかで、俺はずっとやっていくぞ」なんて人については「いるのはいい」と歯牙にもかけない。ファッションの新しさとは何だろうかと夢を抱いてページを捲る度にきっとさめていくことだろう。都合よくパラフレーズしたり、名言風に一文だけ切り取って咀嚼したりと防衛機制に努めるか、もしくは"大人になる"かどうかである。

 

 

※ここのがっこうインタビューについては割愛。

 

長いので記事を分ける。中編へ。