Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















【読書レビュー】ファッション批評誌『vanitas』No.2(旧名:fashionista)とはなんだったのか?中編

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『陳列とキュレーション  ―ユニクロ、コムデギャルソン、デミアン・ハースト―』

「作品の流通・消費、プロモーションの仕方までをデザインするハーストの作品は、量・反復性という点ではユニクロの陳列と、キュレ―ションという点ではDSMG(ドーバーストリートマーケット ギンザ)の陳列とも共振し、ハーストを補助線とすることで、…別の角度から接近できると考えるからだ。」

 

「膨大な量の集積、幾何学的数列がもたらす「崇高」にも近い感情は、ユニクロの陳列にもハーストの作品にも看取することができよう。大量に陳列されたモノ(商品)は、…資本主義社会の象徴でもある。」

 「噴水効果」や「シャワー効果」、教科書通りのVMDから外れた「壁面大量陳列」についても顕微鏡で覗くようにユニクロを語り尽くしている。

 そうした分析は十分に"批評"好きでなくても十分に楽しめるだろう。ところで批評的におもしろいところは、ユニクロの陳列を「過剰な反復性とフラットな平面という二つのエッセンス」として語る様である。思わずうなってしまった。

論旨は明瞭である。ユニクロとギャルソンの対比をその間にハーストを挟んで見てゆく。そうするとあるところでは共通しつつも背反する「透明性」と「不透明性」が現れるのだ。

ユニクロは顧客自身にキュレ―ションが求められるが、ギャルソンのDSMは川久保キュレーションが既にある。ユニクロはそれなりに使えてなんとか格好になる服というリスク回避の信頼がある、対してギャルソンは川久保への信頼がある。

明確にギャルソンとは川久保のカリスマ性によるものだと指摘しているようだ。しかし、「ただし、そのキュレーションは川久保という人間のブラックボックスに閉じられたものであるがゆえに、不透明性を免れえない」と文末には手放しでほめない姿勢を示す。(――果たして、この姿勢は唐突すぎではないだろうか?)

ハーストを語るときに「鑑賞者のリテラシーの程度に応じて、…わかる人にしかわからない不透明性」「素人にも衝撃を与える「わかりやすさ」という透明性」といった形で「透明性-不透明性」への定義が与えられている。とすればユニクロの「顧客自身のキュレーションが求められる」という特徴とは、顧客自身のリテラシーを問われる「不透明性」の"わかりづらさ"を感じさせる、といってよいはずである。またあるいは川久保に対して、DSMにおけるアート作品の設置にしても"わかりやすい"「透明性」があるとも言えるだろう。なにせ服屋なのにアート作品を設置するのである。わかりやすいことこの上ない。

そしてまたハーストについて「いわば「半透明性」の陳列であるがゆえに、幅広い層への訴求力が求められる」として不透明性と透明性の両面の効果を指摘している。ではもちろん川久保にも同様に「ファッション・デザイナーとしての創造性」というわかりやすい透明性とともに「ブラックボックスに閉じられたものであるがゆえに」半透明性と言っていいのではないか?

本稿は――川久保のカリスマ性に捕らわれつつも離反を目論み「ほめつつけなす」――典型的ギャルソン・ファンのふしぎな半透明性を、筆者自らがパフォーマティブに示した労作である。

『21世紀スローファッション試論』

「ファストファッションが全盛期を迎える現状への疑問がある。」

「しかし、ファストファッションにしてもラグジュアリーブランドにしても、19世紀後半以来のモダンファッションにおける逸脱的な突然変異なのではなく、むしろその正当な継承者であることを見逃すべきではないだろう。それらは複製芸術としてのモードと大量生産品としての既製服が混淆する地平に出現したのであるが…」

「ファストではないファッションを志向するとは(ポスト)モダンファッションと批判的に対峙することである。だからといって、よくある消費社会批判や市場主義批判のように、既製服を買うことを一方的に罪悪視するのではなく、ファッションの可能性をどう拡張できるのか、考えてみることが必要である。」

「 <スローファション>的なるものを、「ソーシャル」「サステナブル」「ローカル」「ロングライフ」の4つの視点から見ていくことにしよう」

 はじめに言っておかなければならないこととして、試論とは英語でいえば「essay」である。そう、エッセイです。――といって何かを言いたいというものではない。実際に読むとわかるように極めて実直な分析が行われている。オーガニックコットンや一澤帆布モリカゲシャツ、SOUSOU、エコマコ、イッセイの「132 5.」、matohu。多くの事例をもとに4つの視点から「スローファッション」を見てゆくものである。特に僕のようなさもしい精神を持つ人間というのはエコや環境などというものには疎く、恐縮するほどためになる。

しかしあえて言うならば、ファストファッションとモードが同じく「(ポスト)モダンファッション」の正統な継承者の地平にあるのならば、こうして「服飾文化の画一化」を危惧するわりにモードは多様なのではないかという疑問はわいた。消費社会や市場主義の地平ではファストもモードも同じだが、「多様性」とはそもそもからしてまったく別の地平の――恐らく究極的には抽象的な議論の――問題ではないのだろうか。

『生きのびるための衣服』

「人に一生があるように、衣服にも一生がある。」

「衣服におけるライフサイクルとは、原料採取、紡績、機織、編立、染色、裁断、縫製などの生産段階から、流通、使用段階を経て、回収、リサイクル処理、廃棄処分段階に至るまでの一連の流れを指し、国で考えた場合にはこれに輸出入の段階が含まれる。このようなライフサイクル全体を通じて対象の自然環境へ与える影響や人との関わりを思考することを、其飯(そのまま)「ライフサイクル思考」という。」

  前稿に続きこれもまた極めて実直な分析である。衣料品のリユース率やリサイクル率は一割・二割といったところで2000年代変わらないというのだ。それほどしか行われていないとなれば筆者の危惧もわかる。本稿もまた個別のさまざまな事例を見てゆくものだ。環境問題に興味のある方には衣料品がどうなっているのかを、衣料品に興味のある方には環境問題としてどうなっているのかを、是非とも読んで考えていただきたいと思う。

 

『衣服論事始め ―衣服と時間あるいはメゾン・マルタン・マルジェラと反時代的なもの―』

「人間は衣服なしに存在することができないのである。衣服と時間。これらはまさしく人間という存在の根底に刻まれたふたつのものなのだ。人間を通して、衣服は時間と出会う。ここで問題とされるのは、衣服における時間の諸相である。」

「(鷲田清一がギャルソンを、モードより速くなることでモードの現在主義から抜け出す突破口として見て取ったのは)しかし一方で、こうしたあり方は、現在以外の時間を認めないという点において、時間に対する視点を決定的に変えるわけではない。」

「抜け出すことの出来ない現在という地獄。これがモードの世界を定義づけるならば、ここで描くのはモード化されえないものとしての「衣服の時間」である。」

  もし順番に頭から『vanitas』を読んでいくならば、ここで打って変わっていかにも「批評」らしくなる。また聡い読者にとっては言うまでもなく、本稿の元ネタはフッサールの時間論批判である。内容は哲学の用語が頻出するわけではないが、恐らく聡くない読者には大変なものだろう。逆に、その聡い構図が読めればわかりは早い。では、そうした聡いやり方で読んでゆくことを試みる。

「時間における過去性がそのまま物質として現前化し、現在の内に入り込んできている。素材の過去性は現在へと統合され、なめらかに縫合されてしまうことはなく、むしろ現在においても過去として存続し続ける。こうした過去は、現在に吸収され、見えなくされてしまうようなものではなく、現在において、それをはみだすものとしてとどまり続ける。」

「こうした過去は、一種の物語だと言ってもよい。素材となったものが、衣服であれば、その当のものとして使用されてきた歴史がある。」

  古着風のテイストやリバイバル現象による過去の振り返り方というのは、「過去」を「過去」としてでなく、"今の地点から"振り返って見るのであって、結局のところそれは現在をあたかも起源であるかのように基点とした「現在主義」なのである。――この現在への収斂をフッサールは「過去把持」と呼んだ、

 それに対してマルジェラは、そうした「現在主義」のモード地獄に対してまったくの根本から徹底的に抗っている。現在にどうやっても回収されることのない過去の痕跡が、長らく脱構築的と呼ばれてきたような視覚上の特徴、つぎはぎやねじれを帯びて非対称的な形で現れる。虚飾された「過去」を単に振り返るのではなく、決してキレイでもなめらかでもないありのままの「過去」を「過去」のまま受け止めることなのである。――ハイデガーフッサールを批判して「過去・現在・未来」という枠組みを「既在・現在・将来」に改めた。「過去」は現在以前に「既」に「在」るのだ。

「おそらく衣服にアートの要素があることは否定できなくとも、また衣服は純粋な芸術作品ではない。その理由を時間性という観点から考察してみたい。」

「極めて単純化するならば、芸術作品においてある種の永遠性への志向が存在するとすれば、衣服においてはそれが原理的に不可能であるという点にあろう。」

  マルジェラ-ハイデガーの時間論から次章『生の時間/死の時間』はファッションとアートという関係性からはじまる。

「着ることのできない服は、それは服というよりオブジェである」という一文に、昨今のドメスティック・ブランドにとっては耳の痛い意見を勝手に読み取るまでが聡い読み方です。優秀な批評とは常に多義的なのです。

しかしそれだけにアートについての言及は見逃せないところがある。このアートの定義は、要するに古式ゆかしい神事じみた大芸術のことを指しているのではないか?少なくとも現代アートで永遠性への志向というのはほとんど希少だろう。しかしそれでもアートと名乗っているのだから「アート」の定義を狭めることなしに認めないわけにはいかない。だがこの批判点はハイデガーの影をあまりに見過ぎているため控えるべきだろう。(ハイデガーの名前を筆者は脚注で一度しか使わないのだから、こうしてことさら強調することすら不当だろう。)なにせハイデガーの芸術観とはモンドリアンのような作品すら認めないものなのである。

 そして最後の章『反時代的なものへ』で現在の状況を見ながらマルジェラに見て取るべき新しい時代のありかたが探られる。

「新たな反時代性の線を顕在化させること、おそらくこうした実践が衣服という領域においても求められているのだ。」

マルジェラというあまりに大きなテーマに対して、その大きさに見合うだけの大きな思索によって分析が試みられた。論述の物足りなさを感じるところもあるが、恐らくはどうやっても十分に語り尽くすことはできないだろう。vanitasと筆者自身とをある種の「反時代的なもの」として賞賛しなければならない。

(そしてなにより"使える"のが脚注である。ここは是非とも読んでいただきたい。)

 

後編へつづく。