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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















《書評》『ハイコンテクストなノームコア』は、じつはSUKEBENINGENの騙りである。

ネット・ファッション批評家SUKEBENINGEN氏の書いたとあるコラムが雑誌『FREE MAGAZINE』に掲載されている。私は氏の古参ファンであるため、この見開き2ページ足らずのコラムのためだけにわざわざ渋谷のCANDYというショップにまで取りに行った。Gドラゴンlikeなスタッフが一階でたむろし、二階ではタロウホリウチが鎮座ましまし、三階にはビレバン雑貨がひしめき、なんとも不思議なショップだった。戸惑いつつ愛想の良さそうなGドラゴンに何も買い物はしないが『FREE MAGAZINE』だけが欲しい、という旨を伝えると丁寧にショッパーにまで入れて持ってきてくれた。素晴らしいショップだと思う。この場を借りて改めて謝辞を述べたい。


さて、本題である。


「アートのルールとファッションのルールは違う」。これはSUKEBENINGEN氏の一貫した主張であり、まったく正しい。異論の余地も議論の余地もない。ファッションのテクニックというのは元来「服の表層」の問題が全てであり、これを"イリュージョン"を実現することと比喩的に呼んでもよい。対して、(現代)アートのルールはイリュージョンのためのテクニック=ローコンテクストで競うことを骨董扱いし、そのテクニックがなぜアートたり得る(た)のか、という風なより抽象的なアート成立の概念からメタ的に問い直すことをアートの条件としている。


ローコンテクストからハイコンテクストへ。こうした"イリュージョン"的なテクニックから離れ近代以降は記号の価値が弥増すことになるのはストリート文化において既に散見されてきた通りだろう。言うなれば戦場が「服の表面」というよりも「服の表象」へと、ルールが改訂されたのだとまとめても概ね間違いではなかろう。SUKEBENINGEN氏が具体例としてあげるようにマルジェラはまさに表面を否定して表象へと移行する「エポックメイキング」だった。アンチSUKEBENINGENのファッション批評家、蘆田氏も同様にマルジェラをひとつの転換点として挙げているように、史観のコンセンサスとして前提におかれなければならない。


マルジェラ以前は「服の表層」のローコンテクストで争うことがルールだったが、マルジェラ以降は「服の表象」というハイコンテクストで争うことになった。表象にとって表層は単なるイメージの媒介となる素材=メディウムでしかない。よって表象にとっては表層などなんでもよく、まったく新しくないもののサンプリングだろうとアプロプリエーションだろうと表象の新しささえあれば許されるのだ。古着をそのままコレクションに並べたマルジェラはこのメソッドの一例だろう。


以上のように一部を勝手に補完しながらSUKEBENINGEN氏の論旨をまとめてみたが、概ね同意してくれるはずだ。しかし問題点と認識の誤りを指摘しておかなければならない。



細かなことだが「アートやアカデミックデザインでは既にサンプリングが主流である。」という主張はいささか古い。椹木野衣の著作に似た主張はたしかにあったが、主流であった時期などとっくに終わっている。もはやアートにそのような"主流"などという流れはほとんど存在していない。(付言するなら、アンダーカバーをノイズから批評する論考も世の中ではずいぶん前に出版されている)


また同時に指摘しなければいけないことだが、アートのルールなどというのもとっくに散逸し、独占的なルールなどない。現代アートはそこまで徹底的にマーケットへと"解放"されているのが実状だ。例えば村上隆がペテン師として批判するようなポルケやリヒターはなんだかんだ立派に活躍しているし、絵画も二度死ぬどころか何度も死んでは復活し復権されてきた。アートのルールというのを確定的に求めたある批評家はポロックからリキテンシュタインまではその「ストローク」で評価することができても、当時大攻勢のハイパーリアリズムのような聳え立つクソの前に跪いて筆を折ったりもした。現代アートの内部で最もアカデミズムとして有名なとある学派はウォーホルの使用する既製品は既製品のフォルムの美しさを抽出していると評価し、かたくなにポップアートの記号的挑発には屈しない姿勢を見せたりもした。今日でも、関係性の美学なんて体系的な議論がないまま十数年間ずっとホットな議題である。ざっと見てもあまりにも混沌としているアートの動きを十把一絡げに「アートのルール」とまとめあげるならば、そのようなものは無規定・無内容に等しい。(また付言するなら「アートのルール」などというものよりよっぽどアカデミックで厳正な「美学」をなぜアート側は無視し、SUKEBENINGENもまた無視しているのかは根が深い)


あるいは、少しひねってコンセプチュアル・アート特有の「批評性」というダイナミックな定義にしてみても、その批評性はファッションに内在するものではないために借りてきたものを当てはめているだけで、内容は余りにアブストラクトである。氏はキッチュアヴァンギャルドな服=モードと敵対する形で新しい概念「ハイコンテクストノームコア」を提示してみせるが、そもそも十分にモード(ファッション)の理論が打ち立てられたことが有史以来一度としてないために、何への批評性なのか、どのようなものと敵対しているのかがわからないのである。唐突に着こなしのレベルでファッションが語られるために「いかにもモードらしいファッションをすべきでない」という程度の、脱オタ指南の延長的な主張に落ちてしまってはいやしないか。全ての服がフラットであるならば「いかにもモード」の装いをすることもまた「デザイナーのイデオロギーやコンセプトを極力無視する」ことに当てはまることもありえてしまうのは当然のこととして、いったい誰が、何を、どのようにして「無効化」していると判断可能なのだろうか?"アヴァンギャルド"と"リアルクローズ"との境界は—— 何度も言うがファッションの理論が有史以来打ち立てられたことがないことと同じく—— 一度も定義されていないため甚だ曖昧である。


そして美術史のおさらいを念のため最後に。「ヨーロッパからアメリカがアートの覇権を奪ったような方法」は、ウォーホルがルーブルモナリザを貶めるためではなく、クリントンがアートマーケットに国策として金をバラまき、伴って批評家がより強力な理論を打ち立てヨーロッパから絵画をアメリカの美術館に引っ張ってきたからだ。皮肉だが、政治家が金を出すことほど"ハイ"な方法はないだろう。


さて、この書評はひとつの疑惑をもって結びたい。

同じような欲望を持つ非アート、非アカデミズムのワナビーらのポピュラリティ稼ぎをするSUKEBENINGENこそが真のアート・コンプレックスかつワナビーであり、糾弾されなければならないのではないか?自分が名誉アート側からファッションに向かって蜘蛛の糸を垂らしているといったつもりなのだろうか?

それはなんとも"ハイ"(ガンギマリ)な方法だ。"ハイコンテクストノームコア"(複雑なだけで凡庸極まる)。