読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















《書評》SUKEBENINGEN『 ハイコンテクストなノームコア』の蛇足

「ハイコンテクストなノームコア」の補足
https://note.mu/sukebeningen


ずいぶんと散文的なため、要約はせず逐次章ごとの引用をして評を述べる。


全4章

□ハイコンテクストなノームコアまでのいきさつ

村上隆

□マルジェラ

□ハイコンテクストなノームコアな方法になる理由



△『ハイコンテクスト』の定義がハイコンテクストすぎる

ジョン・ガリアーノアレキサンダー・マックイーンなどテーラーやクチュールのテクニックでイリュージョンのエクストリームをするのが『近代』、それらへのカウンターなコムデギャルソンやマルタン・マルジェラなどが『現代』、そしてその次のポストマルジェラ的なものとして『ハイコンテクスト』を定義した”

まず細かな話だが、アートを学んだ者からすれば「イリュージョン」という語はグリーンバーグ由来の意味のそれが思い浮かぶが、もちろんSUKEBENINGENの使用法はこれに則るものではない。僕は最大限好意的に理解して「テクニックによって身体というキャンバスに向かって絵の具のように服を盛りつけること」と比喩的に捉えている。

細かな話はここまでで、重要な点がある。SUKEBENINGENの提出する概念『ハイコンテクスト』を、表層的な『近代』の先にある表象的な『現代』の、その先にあるものだと定義していることだ。それでは具体的にどういうものが『ハイコンテクスト』となるのか、次節に書いてあるので抜き出す。


“「ハイコンテクストというのは具体的にはどういうスタイルなので?」という問いに「例えばアークテリクスのゴアテックスのアウターにバンドオブアウトサイダースの無地なオックスフォードのシャツとジョンスメドレーのニット、RRLのデニムにニューバランスなど…」といちいち(自分が実際に着ている服などを例にして)説明していたが、ノームコアという、そういったニュアンスを端的に捕まえられるジャストな言葉が出てきた。だから(どんなスタイルなのですか?という問いに)「それはハイコンテクストなノームコアです」と一言で言い切れるようになった。”

たしかに具体的だ。だがより正確に言えば「具体的」というよりずいぶん「リテラル」だ。着こなしのレベルでしかない。判定のクライテリアが不在である。もちろんファッションオタク的 ——当然一部の、にすぎないが—— にはモダンデザインであり、バウハウス的でもあり、ド定番の「正解」なアイテムであるが、そのコンセンサスに頼ることは危険を孕む。危険とはつまり、『男のマジメ服』というか『ビギン君』と混同しないで済む方法がセットでなければやはり脱オタ指南の延長ではないか、ということだ。元より脱オタが張り切りすぎて中二病モードファッションに走る姿への揶揄というコマーシャルな一面がSUKEBENINGENのブログにはあったが、コマーシャルとアカデミズムを分けて考えることを提唱する本人がアカデミズムなきコマーシャルな言説を撒き散らしてしまう危険がある。「それはハイコンテクストなノームコアです」と一言で言い切れる程度の強度しかないのなら、ニュアンスを捕まえるどころかむしろニュアンスに引っ張られすぎているのではないか。


村上隆芸人のすべらない話

“>「例えばルーブルモナリザの隣に何を置けば一番貶められるか?」から逆算してもいい。ウォーホルのキャンベル缶が素晴らしいのはそれを一番貶めるからだ。

これには続きがあった。「〜さらにウォーホルのキャンベル缶の隣に何を置けば貶められるか?その点でいえば、村上隆ヒロポンちゃん(露悪的にディフォルメされた巨乳のアニメ美少女が自らの母乳で縄跳びしてる実寸大フィギュア)は戦略として正しい」と書いた。”

アートの話でいつも村上隆を賛美するのって、とりあえずやっとけば取れ高OKみたいな、テッパンネタ?アカデミズム的には、名前を挙げるべきはコスースやソル・ルウィットだろう。ウォーホルが示したのはあくまでもキャンベル缶のおもしろさまでで、コスースらはそこから更に進み言語的問題へと還元した。熱いポップ・アートから冷たいコンセプチュアル・アートの始まりだ。ウォーホルが「芸術のネタ化」なら、芸術創作行為そのものをラディカルかつシニカルに批判した彼らは「芸術のメタ化」だ。『制作行為に意味はない。アイディアが芸術の作り手となる。』


“「あなたの論法だと村上隆オリエンタリズムの芸者ではないのか?矛盾するのではないか?」という反論にも答えなければならない。話がややこしくなるな、と思い、村上隆の記述に関してはバッサリと切った。

まず村上隆オリエンタリズムな芸者では無い。”


“それにそもそもオリエンタリズムは非アカデミックな作家がやるもの、村上はアカデミックの人。あくまでネタだ。”


これもまた村上隆に頼ったいつものテッパンネタだ。いったいこの”アカデミック”の定義はなんなのだろうか、皆目見当がつかない。日本で(世界的に見ても、と評されることもある)アカデミックな作家というと岡崎乾二郎がいるし、本気でまったく面白くない彼のマンガの方が落差の位置エネルギーもある。アカデミック作家の筆頭たる岡崎が描いて、アカデミズムの批評家たちがまったくくだらないと一笑に付した例のアレだ。また通常、アートにおけるアカデミズム派というと美学系もしくはフォーマリズム系を指すのではないか?村上隆はそういう意味ではまったくアカデミズムではない。武蔵野美術と美術手帖の違いと言えばわかりやすいだろう。あるいはシンディ・シャーマン森村泰昌を比較して、とある有名アカデミックな批評家は一方を『吉本芸人』だと皮肉ったわけだが、無論、どちらのことかはわかるはずだ。



△マルジェラ÷2

“マルジェラのレプリカシリーズは〔中略〕表層的な新しさというよりファッションのモードという領域の概念そのものを拡張している(コムデギャルソンまでは表層の拡張どまり)。

アヴァンギャルドはカウンターが目的なので日常生活で着る服としてはバッドデザインになる。意義が重要なので。よりアヴァンギャルドをエクストリームすればするほど日常服としては齟齬っていく。コムデギャルソンはコレクションで発表した服は全て商品化してたが今はもうしていない〔中略〕

マルジェラはまず良きリアルクローズがあり、それをいかに先鋭的にみせるか、だと思う。”


“マルジェラ以外のアヴァンギャルドと言われるデザイナーらの「より過激な事をしなければならない」「リアルクローズは怠惰や迎合であると低くみる」、そういったクリエイションへの強迫観念はアートコンプレックスの裏返しである。ベースにアカデミックが無いので恐れから、クリエイションをバンジージャンプの様なものに見立てる。”


マルジェラはなんとも割り切れないデザイナーである。例えば古着の引用は優れてレディメイド的でありかつフォーマリズム的にも解釈できる。リアルクローズをたしかに作ったが、トランプや王冠でできた服なんてギャルソン並みにバッド・テイストな代物だ。アテリエや1LDKの人間すらそんなもの着るわけないだろう。(もっとも、これをレディメイド的と擁護したり、あるいは服作りの過程いわば「時間性」を表現するメタなものと批評する者もいるが、それならば「リアルクローズ」として評価するSUKEBENINGENと彼らを比べるとやはりSUKEBENINGENのリテラルさばかりが目立つ)

ギャルソンは四本も袖のある服を作って、マルジェラはシームのないパンツを作った。「マルジェラは服の構造をミニマルに問い直した」と言えるが、角度を変えた相似形として「ギャルソンはマキシマムに服の構造を問い直した」とも言えるだろう。ミニマルといえば聞こえはいいが、表層の問題を問い直すという意味ではどちらも等価だ。偉大なものは多義的である。マルジェラは多義的であるがゆえに、その作品の何を評価するかで批評のポジションが決まる。僕はそのためにいっそ、傑作主義者になるべきだとすら提唱する。

ギャルソンであればコレクションアイテムは最低でも白シャツは最高だ。マルジェラであればコンセプチュアル系は最低だがレプリカ系は最高だ。ピカソの『ゲルニカ』は最低だが『アヴィニヨンの娘たち』は最高だ。こうすれば斯くの如く、僕の立場はご明察だ。


△ハイコンプレックスなノームコアになる理由


“教養のない人にはただのローファイにしか見えないが、教養がある人にはそのローファイらの(意図的なルールに則った)セレクトやミックスから裏にあるハイファイなイデオロギーが読み取れる。それがハイコンテクストなローファイであると理解できる。”


“「ファッションもアカデミックデザインである」と世の中に認知させる、それが一生をかけて三宅一生が実現させたテーマだった。

だが実際にやった方法は「アカデミックデザインをファッションに持ち込むことは可能である」であり、既存のファッションのやり方の延長ではアカデミックデザインにはならない、と三宅一生自身が証明した訳だ。〔中略〕

だから「ファッションはアートである」も同じく、美大でアート(現代アート)を学びファッションに持ち込む事になる。既存のファッションのやり方の延長ではなく(だからもし「アートな服をやるなら美大で現代アートを学べ」に反論するなら三宅一生も否定すべきだし、三宅一生を担保にしてる川久保玲山本耀司、さらにそのフォロワーあたりまで全部筋を通して否定すべき。日本のアヴァンギャルドと言われるようなデザイナーはぜんぶ三宅一生のアカデミズムにぶら下がってるのだから)。”


巻頭から間二章分の蛇足を挟んで最終章、問題の「ハイコンテクストなノームコア」についての説明である。だが、著しく残念なのは上記引用の通り、着こなしのリテラルなレベルの語りである。しかし、着こなしのレベルでの語りしかできないのはなぜか?

答えは単純なように思われる。「ファッションにはモードなど存在しない」ためだ。白いカラスは存在しない、街に黒いカラス族がいるだけだ。確固たるモードの体系など存在したことがない。モードもアンチ・モードも『モードの地獄』に捕らわれ、モードを恐れすぎている。執拗にアンチ・モード(アンチ・アートコンプ)を語ることは、モード(アートコンプ)を克服するためのバンジージャンプ(成人の儀)にすら見える。


以下は完全に蛇足である。

ちなみに僕はイッセイミヤケを物心がついた時から否定している。肯定したことなど一度もない。イッセイミヤケの服はA-POCなどとてもプロダクト的だと思うが、それは要するに非身体的という意味だと僕は捉えている。誰でも着られることで「サイジング」の問題を解決したが、そのような服飾事情的テクニックなんかより、ユニクロが各サイズを大量生産することの方がずっと「プロダクト的」である。誰であってもユニクロに行けばまともな服を着られる。そしてA-POCより安くオシャレで画一的である。『イッセイミヤケ』とは、単なる疑似問題のひとつでしかない。