Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















ファッションのおわり、黙示録前史

「ファッション」の歴史はたかだか半世紀である。アートは二世紀、文学はそれより一世紀ほど古い。——これは私の独断である。


ファッションの歴史を記述する時に、オートクチュール以前と以後で分ける見方がある。画家の地位は元々単なる肖像画や宗教画を描くだけの職人であったことと同じく、ファッションデザイナーというのも元々は豪華絢爛な誂え服とその表現を支えるための技術の研鑽を行う職人、もちろんまさにその時代には「ファッションデザイナー」という呼び名すら存在していないが、スポンサーに請われて作るだけの職業であった。画家がこの職人芸としての評価から離れて芸術家として自律的な課題による作品に取り組むようになったのは、「絵画そのもの」または「画家そのもの」が評価の対象となり(『芸術家列伝』など)、またその後に安価な絵の具やカメラの発明で職人芸の価値が著しく毀損され、物理的価値から離れた芸術的価値のための技芸として発展したという歴史がある。

ファッションも元は、諸説あるが儀礼用としてはじまったとして、同様に産業革命とともに工場で作られる既製服の技術力があがり、誂えものの物理的価値が次第に減少していったのだが、ある意味では絵画にとってのカメラのような安直な機械の発明が遅れに遅れようやく最近になって3Dプリンターが出てきた程度であることがファッションの悲劇である。強いてわずかばかりでも歴史上記述する価値がある事件といえば、ストレッチ素材の発明くらいだろう。それでもイッセイミヤケのA-POCなどは別としても、未だにスーツなんて骨董品の形を安く形成するための低級な技術と見なされている。


しかし服と絵画との歴史を比較するとき注意すべきは、技術発展という目に見えてわかりやすい話ではない。比較すべきはむしろ「そのものの価値」というのが歴史上、ファッションには生まれていないということだ。もちろんヴィンテージやよほどのマスターピースは、好事家が自らのワードローブに作品をかき集め擬似的コレクターの役割を果たしているが、それはほとんど資料価値による骨董品収集だ。これらのものと芸術作品との違いを改めてここに定義するなら、つまり、セザンヌからピカソへと至るまでの自律的な課題があってその解決方法が見いだせるような作品のこと、と言える。単なる事実が羅列された流れを歴史と呼ぶのではなく、歴史というものをどのように見ることができるのかという「歴史観」の問題であり、その歴史観の記述に役立つ作品である、ということだ。ファッションにだってもちろん歴史はある。しかし歴史観は存在しない。全ての問題はここに起因する。アントワープ・シックスに、印象派のような課題とその解決への意識が共有されていたと見なすことは誰にも不可能である。

服と絵画の最も異なる点が「アート」ではないということだ。服の価値は、歴史や批評の領域内には存在せず、個々人の趣味の領域内にだけ存在している。演繹的な断言をすれば、「3Dプリンター」などの技術革新は大した問題ではない。ファッションには大した問題というのが一つも存在しないために、大した問題にはなりようもない。

絵画と違って「そのものの価値」というのが個人の趣味に依存するためだ。景色の再現が課題であるような絵画はカメラによって死を迎えたが、ファッションにそのような共有された課題を見出すことはほとんどできない、それゆえに、逆にいえば、死に対して抵抗的な形で共有できる課題もないということであり、すべてが死ぬ。
完璧なフィッティングのスーツがいかに安価で作られようとハウス・スタイルは生き残るだろう——ただし、それは同人誌の人気サークル程度の規模として、様相として、オタク的ファンと作家の小さなコミュニティーとして、彼らの仕立てる優美なハウス・スタイルは素人の悪夢的デザインと並列され、死につつ生ける亡者となる。また何世紀か前の再現不可能とされるオートクチュールゴッホの『ひまわり』の如く乱造されるだろう。素晴らしいことに、絵画はいかに粗製乱造されようとそれでも作家自体の価値が保たれているが、ファッションにおいては親近感とシンパシーだけが唯一のクライテリアとなりきっとコミケのような地獄絵図が現出するだろう。


誰でも表現者になれる幻想の世界。それは「誰でも子どもの運動会はおもしろい、友人の演劇は観に行く、同僚のカラオケは褒める」程度のものに堕していく——否、ファッションは元からそんなものではないか?


ファッションという服を使った表現作品において内在的な課題は存在しないのだが、無論これこそ逆説的な課題であり、つまりファッションにとっての唯一なる課題は「そのものの価値」の不在という基礎的問題なのである。