Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















「マルジェラ・デュシャン批判」――コンセンサスレス・コンプレックス・コンセプチュアル・ファッション

 コンセプチュアル・アートの創始はデュシャンに由来する。クールベ以来の絵画を「網膜的」と批判したデュシャンは、既製品の便器を逆さにして展示し、芸術の成立する条件を最小限の形式で示すことにした。作品物から美的な厳めしさを丁寧に排除し、単なる物(オブジェ)であらしめることによって、その美的な意味の空白に意味深長な疑念を抱かせ、観者のコンセプション(構想力)を喚起させたのだ。有名なあの便器には元々は花が添えられるはずだったが、それでは花の美しさに観者は低俗な美的関心を寄せてしまうだろうために、花を添えるコンセプト(意図)は放棄された。パイプを取り外して有用性を無くした何の変哲もない便器、このオブジェの性質についてある批評家は「まさに、つつがない(筒がない)」とくだらない冗談で評するが、的確ではある。マルジェラもまた1997年のコレクションではあたかも未完成で袖の付いていない服、袖に腕を通せない服を発表したが、これもまた「つつがない(筒がない)」と評すべきだろうか。



f:id:f_f_f:20160507135730j:plain


 マルジェラをデュシャンになぞらえる者は多い。我が国で唯一の真っ当なファッション批評家、蘆田裕史氏はこう述べる。

マルセル・デュシャンは近代美術史のひとつの転換点となったが、それと同様にしてマルジェラは近代ファッションのあり方を更新した。”


なるほどこの見解に一旦は勝手ながら同意しよう。ラルフローレンのようなそれら「リアルクローズ」は単に俗っぽい服を称揚し客の身体を服の中で作られる身体像へと透明なまま速やかに招いてしまうクールベ的な「リアリズムの服」という意味で、もしくはゴルチェやヴィヴィアンはマネのように神話伝統へのロマンティシズムを振り切れず画面に分裂を来したように、過去へ逆進するアヴァンギャルドとして、それら偽りのアヴァンギャルドに対峙するコンテクスト(文脈)の上に、真性のアヴァンギャルドであるマルジェラが位置すると、そう解釈させてもらうことにしよう。

 詳らかな話は雑誌の誌面にて改訂増補するとして、重要なのはマルジェラがファッションの歴史上で果たした意義についてなのだ。デュシャンは『泉』が拒否された時に抗議文を自身の雑誌に掲載した。

“マット氏が自分の手で『泉』を制作したかどうかは重要ではない。彼はそれを選んだのだ。彼は日用品を選び、それを新しい主題と観点のもと、その有用性が消失するようにした。そのオブジェについての新しい思考を創造したのだ”


マルジェラについても同様のことが言えよう。マルジェラがマルジェラ自身で服をデザインしたのかどうかは重要ではない。単にファッションの内外にあるものの中から関心をもったものを、自身のコレクション作品に選んだのだが、デュシャンと同様に、作ることには優れないが審美眼には優れたデザイナーだった。デュシャンの絵画はあたかも低質なピカソであるように、マルジェラがその造形志向をあらわにするトランプやスキーグローブ、ビンの王冠を使った作品群は低質なダダイスムすら感じさせる。ペンキ・パンツにしても「painted pants」という「パン・パン」という語感からの発想であり、モナリザの複製画にヒゲを描き足した『L.H.O.O.Q』が「Elle a chaud au cul」=「彼女のお尻が熱い」のもじりであることと同種の言葉遊びでもある。

 中でもとりわけカビドレスは、身体と切り離された「展示用ファッション」という堕落したジャンルを創設さえもした。――後続の「展示用ファッション」にはアンリアレイジが並ぶだろう。カビドレスを見る時に、我々が注視するのは表面のカビと布地でしかないが、普通の絵画が絵の具とキャンバスによって作られることと構造的に異なる。あらかじめ服という布を加工して出来上がった二次的なものの表面にカビという素材で有機的な模様が描かれるが、服が既に二次的なものであるために「カビの柄のドレス」としてしか認識されず、絵画のようにその媒質の格闘もなければイリュージョンもない。そしてコンセプト(構想)も低俗である。「カビ」もあらかじめネガティブな素材であるだけ一層先験的であり、あらかじめ約束された破壊的性格=アヴァンギャルド性を表現する図解でしかない。つまりメタルバンドのTシャツと何ら変わらないということだ。コンセプチュアル・アートへのコンプレックス(劣等感)によって作られた概念「コンセプチュアル・ファッション」にせよ、基本的にはそのコンセプト(構想)が重要であるために視覚も身体も、造形すらも作品構成上のヒエラルキーの下層、ほとんど無価値な位置に貶めるのだ。

 しかしそれでもなお、マルジェラに造形的な価値を見出すとすれば、マルジェラの審美眼によって選択=作品化されたレプリカシリーズのみであると主張するところだが――もっとも、それも単なるファッションの歴史における階段の踊り場としての役割に過ぎないが――、ここでデュシャンの例を引くならば『L.H.O.O.Q』に続いて『ヒゲを剃ったL.H.O.O.Q』という単なるモナリザの複製画そのものを作品として作ったように、過去=歴史への言及そのものを作品の動機とするならば無限の階梯=複製へと至る。マルジェラの価値をそもそも複製的であるとするならば、H&M とマルジェラのコラボほど皮肉的だが正しいものはない。蘆田裕史氏はH&Mとのコラボを批判したが、私はいっそこれこそ正しくデュシャン的だと称揚したい。

 多義的であるために混乱するマルジェラの作品解釈について、想定されるだろう5つの主義を簡単にまとめ末尾とする。私がレプリカシリーズのみにしか価値を認めない理由の理路でもある。

数字の主義になるべく基づいて各作品を点検する。

「5つの主義」
1.視覚と身体を追求する造形主義
2.クチュールに続く伝統主義
3.アプロプリエーション、サンプリングなど、引用による非造形主義
4.制作を放棄する破壊的なダダイスム
5歴史の文脈を本質とする.コンセプチュアル主義

a.シームレスパンツ
1→造形上のミニマムを追求する視覚的な表現
2→「服飾事情的」な、シームを排除したがるテーラー・クチュール好みの手仕事礼賛
3→過去のビスポークに見られるデザインの引用
4→シームを否定する
5→ある種の「無」の側賞として、ブランドという歴史的問題へのアンチテーゼとしてシームを排除することによる観念的な動機

b.スキーグローブのブルゾン
1→マテリアルの効果を利用した造形表現
2→技術の高さ、手仕事を礼賛
3→過去の服を引用し再構成する引用
4→みすぼらしさを強める効果として
5→ノーブランドなアイテムをマテリアルとして過去の歴史を表現する

c.カビドレス
1→カビによる視覚的効果を狙っている
2→一点ごとに異なるという手仕事と同種の表現
3→カビという日常的な表象を美的に展示する
4→カビによって服を破壊する
5→着用や量産を禁止し、刻一刻と変化する歴史と時間を表現する

d.レプリカシリーズ
1→過去の優れた造形の作品を選択し提示する
2→手の込んで作られていた過去の作品への敬意の表明
3→レディメイドとして引用を行う
4→自らの制作を放棄する表明
5→歴史の文脈を再構成するような視座の象徴として

e.ドールシリーズ
1→人形向けに作られた造形のおもしろさを提示する
2→仕立てるという意味では人形用だからこそ強調される
3→人形用の服であっても服であるために引用を行う
4→人間用の服を否定する
5→ファッションの歴史から取りこぼされたファッションを拾い上げる

 まず明らかに、なににでも結びつけて解釈できるがゆえに、あまりにも過剰な4のダダイスムはマルジェラには適さない。言い様を変えれば4が適しないものなどないために、余計な想定である。
次に3の引用による非造形主義だが、bとcにおいては造形的志向が明らかであるために適さないが、主義としてではなく方法論としてならば留保付きで採用可能である。2は否定こそできないが、これを採用することはマルジェラを単なるクチュールの伝統に連なるものと見なすだけになるため、これも主義としてではなくマルジェラの「趣味」としてならばとても妥当な視点である。1の視覚的・身体的な造形についてだが、aでは効果が弱く、bやトランプのベストなどの悪趣味さとコンフリクトするためにほとんどの作品に適用しづらく、適用しても押し並べて視覚的な効果が弱いという難点が付きまとう。問題は5のコンセプチュアル主義であるが、これも4と近く、なににでも結びつけ易く、事実可能であろう。4と同じく過剰さが付きまとう解釈だが4とは異なり発展的な視座をもたらしえる。

 このように点検をすると解釈としては3と5のセット「引用という方法によってファッション史とそこからこぼれてきたものへの批判的検証」こそがもっとも適切と思われる。しかしこの”間違い探し”の結果が適切であろうとも、クチュール伝統主義へ向けられた懐古的趣味は付きまとい、それでいて造形的問題は蔑ろにされているということは留意されるべきである。そしてこの留意を認めながら上記a,b,c,d,eや数ある作品群を俯瞰するならば、唯一、レプリカシリーズのみが伝統主義から離反し良い趣味のものを視覚的に選択していることに気づくだろう。それゆえに私はレプリカシリーズのみを評価する。
 デュシャンに並べてレディメイド的な評価を口ずさむ者がいようと、アートとしての価値すらあるかのように評価する者がいようと、ハイデガーの如く時間の哲学を読み込む哲学者がいようと、ましてや「匿名性」が云々などとあたかもエディ・スリマンに向かって「少年性とロック」が云々とコピーライトに過ぎないものを口真似してありがたいマントラのように唱え続けるものがいようと、彼らのような美術的または哲学的比喩は常に外在的なコンセンサス(総意)に頼り、ファッションの内部にあるべきはずの内在的なコンセンサス(歴史)を含まない。現代アートにおいてコンセプチュアル・アート有意義だったことは認めるが、それは世に劣悪なモダニズム・アートが蔓延するほどモダニズムが硬直化したゆえの反省的ポスト・モダニズムであり、ファッションには未だそこまで何かが蔓延できるほどの硬直化=理論化すらないにも関わらず概念だけを賢しらに輸入するのなら”Fashionable nonsense”(知の欺瞞)の誹りを免れない。