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服飾・美術・予言






















《展評》PARISオートクチュール展 ――三菱一号館美術館

・PARIS オートクチュール

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 グレやヴィオネが彫刻的というのなら、バレンシアガはどうであろう?私の使用する「彫刻」という言葉の定義は簡潔に言って「土台を必要とする表現作品」のことである。無論この「土台」をリテラルに捉えるのではなくひとつの概念として言うならば、イーゼルやディスプレイもまた然りと言えようが、服にとって限定するなら身体のことである。オートクチュールプレタポルテを強いて分ける時の意義というのは、この「土台」が単一か複数かであることのみと言ってよい。
 しかし今回のオートクチュール展で実感させられたことは、以上の問題意識は疑似問題であったということだ。簡略に、あまりにも簡略な言い方をすれば「サイジング」という程度の産業構造から導かれる必当然的かつ非美的な問題でしかない。

 真面目に見るほどに展示された数々の豪奢な衣服はまるで脱がれたスターの衣装のように見え、メットガラの控え室を覗く気分であった。特に超絶技巧的であるわけではない。素材が「最高級」なのであり、その素材のための「仕立て服」という印象であった。たった一つの土台にとって(土台が一つであるために)シンギュラリティを獲得しているわけではない。それどころかむしろ服自体の表現としてはプレタポルテに劣るものも数多い。スキャパレリよりもフラボアの方がよっぽど”アーティー”にすら感じる。

 とはいえ、中でも特異な感想を抱いた服がグレとバレンシアガであった。グレもバレンシアガも服の表面上に構造物を作るが、グレは身体に親和的な「装飾」であるのに対してバレンシアガは身体に敵対する「構築」を行っていた。最後の部屋で展示されているバレンシアガの『イヴニングドレスとペティコートのイヴニング・アンサンブル』は特に印象深い。身体にまったく無関係に構築される空間は、その過剰なクオリティーの素材によるところもあってオートクチュールだからこそなしえた一つの身体に対する(脱)シンギュラリティである。あのアンサンブルが似合うことは人の身体では有り得ないために、目の前の服がまるで服ではないかのように概念の規定を逃れる。服であるのか、それとも彫刻であるのか、恐らくは人が身に纏えば醜くもなろう、床に横たえればフラミンゴの死体に似るが、ともかく美しくあるために最低限度の空間を支持する物体さえあれば勝手に美しくなる。この服にとって人間などハンガーに等しい、という意味では身体を足蹴にする「彫刻」であると言いたい。

 この展示は服飾史的にも見所がある。コルセットの解放など知らぬ存ぜぬというようにディオールが執拗に数々のラインを提案して回帰させる様など、人間の欲望の所産こそが「モードの地獄」であると考えるに楽しい。