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Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















《展評》hatra―2016AW/BALMUNG―2016AW「黒い花」

批評・哲学

・hatra―2016AW

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 ハトラの今シーズンはとある合同展で見たものだ。デザイナーズ服が鮨詰めに並ぶ中ですらも、ハトラの服は浮いていた。
 トライバルな意匠は他ブランドでも多々見られるがそれとハトラを分けるものは使用の大胆さである。あたかも古代文字、というよりもゲームによくあるような古代文字を真似て作られた架空の文字のようである。文字状である、だが無論のこと無意味である。このことによって観者に対してわずかな規則性を発見させ、結果として服への注視を強いるのだ。読み取れる文字であればまた違う、集中はすぐさま文字の意味の次元に移り服は文字の意味に従属するか、または単なる服の「柄」として認識されれば視線は柄に従わせられる。無意味でありながら服への注視を促す強制性はデザイナーの長見氏が語るように「積極的に性や人格をキャンセルしようとすること」として機能している。
 造形的問題として言えば、良くも悪くもハトラの服は”内向的なオタク”を象徴するようであり、構図的に見れば中心に寄って正面的な造形なのだが、今回のこのトライバルな意匠も同様なのである。その点で常ながら一貫している。アイコニックな表現を取り入れたために”デザイナー志向”を強めているという批判は一面では正しいが、だからといってなんだというのか?この合同展で見ればすぐさま理解できよう、デザイナーズ服などというものは既にあふれかえりいかにアイコニックであろうと奇抜であろうと、着用者を没個性にする力の方こそ着用者の個性を引き立てる力よりも余り有る。いっそ提唱するなら「服に着られている」というありふれた貧しい箴言をこそむしろ言祝ぐべきだ。信条観念から先験的に導かれる「個性的」という価値より、服によって引き起こされる「没個性化」は服が服のみを求めるために起こるのだからより自律的な価値がある。

 ところで、昨年からボトムスもいくつか作られるようになったがこれは総じて怠惰の産物である。下半身は上半身と違って常に稼働し、それでいて服の引っかかる筋骨は少ないためにデザインの遊びが少ない。定番のパーカーがそうであるような意味で、「着心地」を表面的なデザインで表現することは極めて困難だろう。かといって自律的なボトムスなどというものを作れたとしたら、それではトップスと齟齬を来す。過多なトップスの分量をそのまま分裂させずにボトムスへと流すのなら、恐らくはトライバルの意匠や柄によって叶えるべきだったのではないかと思う。いくつかはたしかに柄の使われたボトムスはあるのだが、下半身に流れを導くものではなく腰部に集中させるものでしかない。より悪く言えばアートピースほどのものでしかないのではないか。方法はあるはずなのだが、その方法をとると今度は”内向的な”印象が減るために背反の解決が必要になる。勝手忖度して言えば、根本的にはデザイナー自身の身体感覚の延長から分断された先に解決策はあるのだろう。なんにせよ、今後のハトラは”一貫性”こそ注目されるはずだ。

・BALMUNG―2016AW「黒い花」

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 ちょうど京都でジェンダーをテーマにしたバルムングの展示が行われていたようだが、これは見ていないながらあえて述べるならアセクシャルやノージェンダー、アンドロジーナスファッションなどという流行に流されたテーマの設定ではないか。わざわざ己が身の足まで”流され行く”必要性はないだろうと思い、触れずにおく。

 まず第一に「服に性別はあるのか?」という問いに答えるなら、否である。服というのは単なる物、布を切って貼って縫い合わせて作られた二次的な加工物である。布や糸などの単なる「物」に「性別」が差し挟まる余地などそもそもない。だが服が「物」の中でもとりわけ人の形をかたどるために男性的・女性的という比喩が盛んに用いられる。男性的という言葉は概して直線的また硬質であることを指し、女性的という言葉はその反対に曲線的また軟質であることを指す。その程度のデザインに基づく印象でしかなく、その程度のデザインに基づく印象であるからこそ”女性的”なメンズ服と”男性的”なレディース服、という次元の語りようが可能となっている。ではバルムングはどうかというとそもそもほとんど人の形をしていない。その意味で純粋に「服」であり、服でしかない。
 とはいえ服の作用に性別の識別があるのは確かである。男はレースを好まないが女はレースを好むためにレースの服を着る人間はほとんど女であり、またセーラー服は女に好まれるために女性的な服の側に分類される。もっとも――無論、歴史的に見れば17世紀の男達はレースを好み、クラシカルなsailor(船乗り)の男達はセーラー服を好む。要するに、大衆はトレンド(流行)として男性的・女性的というテイストの分類をしているに過ぎないのだが、そのようなトレンド分析に踏み入ることは大衆向けのファッション雑誌に任せておけばよい。たとえ現生人類が絶滅しようとも、造形は文化ではなく身体を基礎とするために、男性の身体に沿う造形と女性の身体に沿う造形とが、逞しい身体に沿う造形と細身に沿う造形とが――キャンバスの形態に対応する絵の具の形態が求められるように――唯一重要なのである。

 バルムングの今シーズンは今までのコレクションに比べて変わったように見える点と変わっていない点がある。前者はセーラー服や記号性であり、後者はシルエットなどの非身体的な造形である。前者は言うまでもないわかりやすいものだが、後者はわかりづらい。変異を感じることは無理からぬことだが、2015SSで登場したデニム地のコートと関連を持つ。



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 バルムングの作る服を形から大別すれば、軽い素材を使ったMA-1に近い形のブルゾン、重い素材を使ったコート、オーバーシルエットのパーカー、この三種類の服しか作っていないと言える。この三種類の外形の内部にレース地やレザー、刺繍、時にはゴミ袋などの様々なバリエーションが配置される。セーラー服はこの分類からするとコートに近いが、強いて言えば既存の形に意味を与えることには成功しているだろう。だが特に見るべきは厚地のニットで作られたプルオーバーのコートである。2015SSのデニム地のコートでも同様にパイピングが使われているが、あくまでもアクセントほどの効果でしかなかったが、今回はパイピングによって身体の否定までが行われている。
 素地が分厚いために身体の凹凸、つまり筋骨は服のシルエットに埋没する。それでいてパイピングは身体に敵対する位置に配置され、素の身体は完全に否定される。特にパンツのサイドに施されたパイピングがこの否定に役立っているだろう。前述のようにハトラもオーバーシルエットに挑みながらパンツを作れていないのに対して、バルムングは難なく成功している。「積極的に性や人格をキャンセルしようとすること」という長見氏の語るテーマに相応しいのはむしろバルムングのように思える。しかしそれだけにセーラー服のようなわかりやすい記号は今回のコレクションの中では不純とも捉えられ、またインスタレーションでは特に浮いて見えた。
 ところで「浮いて見えた」といえば、インスタレーション会場は床一面にアルミホイルが敷き詰められ蛍光灯が明滅していた。あたかもアンディー・ウォーホールの「Silver Factory」を思わせたが背後の「ホワイトキューブ」と半々であり、ウォーホールの故事にはあまり則らず服は「浮いて見える」というよりも単に見づらく、見づらいものが持つ特有の神秘性――同行者は「寺の薄暗い中で見る仏像を思い出す」と語ったが――いささかartyな印象が強かった。いっそ振り切ってしまえば良いと思うが、これこそ”ファッション”なのだろうと独り言ちするばかりである。服なんて、あまり拝むものではない。


また以前したためたhatra・chloma・BALMUNGについての批評も合わせて紹介しておく。

hatra・chloma・BALMUNG ――①|愛・着る・ファッション|note(ノート) https://t.co/BE1MRgNSKG

hatra・chloma・BALMUNG ――②|愛・着る・ファッション|note(ノート) https://t.co/qPnhu5oGsq

hatra・chloma・BALMUNG ――③|『愛・着る・ファッション』|note(ノート) https://t.co/z1p2imCF6L


http://s.fashion-press.net/news/23089
http://s.fashion-press.net/collections/6114