Fashion,Fine-art,and Forecast.

服飾・美術・予言






















「どうして変な服が必要なの?」~ポール・スミスとマティス、剛力彩芽~


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 ファッションオタクとそうでない一般人の感覚では「デザイナー」が何のためにいるのか、その答えは全く違うと思います。一般人からしたら「良い服」とはアローズ、ビームスロンハーマン、あるいはファストファッションからマルイ系までが評価の対象でしょう。ベイレンドンクやらラフなんて評価どころか理解すらしがたいものなはずです。

「ちょっと私ファッション学んじゃおっかなぁ~(音符)」なんて人が試しにパリ・コレクションを見ると恐らく絶望するでしょう。こいつら意味わからん、と。たぶんそういう体験はファオタの方々にも一度はあったかと思います。わけわからんデザイナーがわけわからんデザインの服を作って、わけわからんけれど賞賛されてるし、めっちゃ高い。
 ファオタは全てのブランドの価値がわかるわけではないものの、そんな未曾有なカオスの中に「あ、これちょっと良いかも……」みたいに大なり小なりビビッと来るものがあった人なのかなと思います。そしてそんな取っ掛かりから自分のアンテナを伸ばしていって立派なファオタに成長していくのですが、それでもやっぱり相変わらず「わけわからん服」は常にあるもので(僕にもいっぱいあります)、大人な折り合いをつけながら自分の世界把握の内側にあるものを、好んで選び取っていくのです。

 こうして深まるファオタ的なファッションの認識は、一般人と簡単には共有できなくなっていきます。ファオタが自慢のクローゼットを開けばゲストは絶句するわけです。

僕はこうしたオタク的な「この良さがわかるだろ?」的なノリが嫌いです。言語化する努力を持たないことは肯定されるべきリーズンを持たないことと同じです。

ところで、こんな中途半端な服オタ"だけ"が嫌う稀有なブランドがあります。『ポールスミス 』です。

パンピー「カラフルなストライプがおしゃれ♡」

上級服オタ「マルイに入ってるブランドで唯一ポールスミスだけがジョンロブとコラボしている、さすが大英帝国勲章だ……」

だというのに下級服オタはストライプを見るや否や親の仇のように叩きだすわけです。
でもそれってブランドタグを肯定することを180度裏返して否定の立場に立ってるだけで、やっぱりブランドタグに絡め取られてるだけじゃね?
ストライプだからって批判してるやつら、ゲルハルトリヒターも批判するわけ?

ポールスミスというブランドはモードではなく、かといってラグジュアリーでもなく、エレガンスでも、ロックでもありません。天気も頭もカラッとしたイタリア人みたいにマローネ・エ・アズーロを生み出せない、万年曇天の中で陰鬱に暮らす不器用なイギリス人のマゾヒスティックかつシニカルなオシャレ着です。

モードの服を作ることは簡単で、服のクラシックを再解釈(ダダイズム)すればいいだけですが、ポールスミスはそうではなく、あくまでも服のクラシックの範囲内で再配置(デザイン)をしているのです。それをやってしまったらモードになってしまう、という境界線、限界の中でどれだけヒネクレられるか、そんな王室伝統大好きなのにすぐジョークやパロディのネタにしてしまうちょっと照れ屋でアンビバレンツなイギリス人の心意気が見えてきませんか?

表現物には常にフレームがあります。絵画であれば額縁、彫刻なら土台、映画ならスクリーン、漫画ならコマ割り、そして服ならクラシック。

絵画において特にこのフレームに意識的なのはマティスでしょう。どんなものが描かれようと絵画そのものは既に静物です。しかしそれであってもマティスの革命的なところは枠内においてすら枠からはみ出ようとするほどの遠心力的な色の再配置、固定的にも関わらず内側で作られる動的なリズム。モダニズムとはフレームとの葛藤です。マティスはフレームを壊して彼岸に行ってしまうことなくフレームの中で格闘しているのです。しかしそんなことフレーム内で安定しているフツウの絵画を十分に見慣れて目が肥えてる熟達でないと何がすごいのかわからないでしょう。かといって何もわからないパンピーからすればただのオシャレな絵画です。ポールスミスと同じですね。絵画における最大の上級者向け、それがマティスです。

中級者にはわからないが、上級者にだけわかる女優といえば、画面のフレームとグラップラー刃牙をやってる剛力彩芽がいます。剛力ダンスしている彼女は画面というフレームの中でまるでマティス絵画のようなリズムを作り出しています。それだから矩形の写真で見ると写真そのもののバランスを脅かし、ただのアイドルやら女優やらにしか見慣れていない半端者にはブサイクに見えてしまうのでしょう。またパンピーからすればただのアイドル女優。しかし上級者からすればもっと恐ろしい、人間の顔をした映像「カット」そのものに見えるのです。特に動画で見ればわかることですが、カットの流れをコントロールする力点は常に剛力彩芽です。カメラが剛力彩芽を捉えるのではない、剛力彩芽がカメラを捉えているのです。

ポールスミスマティス剛力彩芽はたしかに一見したら「変」に映るかもしれませんが、よく見れば決してフレームを壊さずにフレームの中で格闘を繰り広げる上級者向けの表現物なのです。静止した空間内でいかに動きを作るかという課題への解答として、奇妙にも映るヒネリを加えた表現に至ったのです。フレームそのものが見えるくらい上級者になった時にこそ初めてこの良さが理解できます。なのに半端なやつらはブサイクだのゴリ押しだのと偏屈こじらせてdisってればそれで何か通ぶれると勘違いしているわけですよ。表現物のフレームが見えていない人間は、自分の認識のフレームすら見えていません。剛力彩芽の名曲『友達より大事な人』は友達というテーマでまさにこのフレーム内での格闘を歌っています。

剛力 彩芽 『友達より大事な人』 - YouTube
http://m.youtube.com/watch?v=QR6Gj0MKcew

「ねえ きみはもう友達じゃない」

「友達より大事な人」

「いつまでもそばにいてね My friend」


「友達」というフレーム内でありながら、その境界線を問いただすこと、それでいてフレームを破壊してしまうのではなくやっぱ結局はフレーム内で格闘すること、ポールスミスのクリエイションとはまさにこのようなフレームについての内在的な問いかけなのです。

《書評》SUKEBENINGEN『 ハイコンテクストなノームコア』の蛇足

「ハイコンテクストなノームコア」の補足
https://note.mu/sukebeningen


ずいぶんと散文的なため、要約はせず逐次章ごとの引用をして評を述べる。


全4章

□ハイコンテクストなノームコアまでのいきさつ

村上隆

□マルジェラ

□ハイコンテクストなノームコアな方法になる理由



△『ハイコンテクスト』の定義がハイコンテクストすぎる

ジョン・ガリアーノアレキサンダー・マックイーンなどテーラーやクチュールのテクニックでイリュージョンのエクストリームをするのが『近代』、それらへのカウンターなコムデギャルソンやマルタン・マルジェラなどが『現代』、そしてその次のポストマルジェラ的なものとして『ハイコンテクスト』を定義した”

まず細かな話だが、アートを学んだ者からすれば「イリュージョン」という語はグリーンバーグ由来の意味のそれが思い浮かぶが、もちろんSUKEBENINGENの使用法はこれに則るものではない。僕は最大限好意的に理解して「テクニックによって身体というキャンバスに向かって絵の具のように服を盛りつけること」と比喩的に捉えている。

細かな話はここまでで、重要な点がある。SUKEBENINGENの提出する概念『ハイコンテクスト』を、表層的な『近代』の先にある表象的な『現代』の、その先にあるものだと定義していることだ。それでは具体的にどういうものが『ハイコンテクスト』となるのか、次節に書いてあるので抜き出す。


“「ハイコンテクストというのは具体的にはどういうスタイルなので?」という問いに「例えばアークテリクスのゴアテックスのアウターにバンドオブアウトサイダースの無地なオックスフォードのシャツとジョンスメドレーのニット、RRLのデニムにニューバランスなど…」といちいち(自分が実際に着ている服などを例にして)説明していたが、ノームコアという、そういったニュアンスを端的に捕まえられるジャストな言葉が出てきた。だから(どんなスタイルなのですか?という問いに)「それはハイコンテクストなノームコアです」と一言で言い切れるようになった。”

たしかに具体的だ。だがより正確に言えば「具体的」というよりずいぶん「リテラル」だ。着こなしのレベルでしかない。判定のクライテリアが不在である。もちろんファッションオタク的 ——当然一部の、にすぎないが—— にはモダンデザインであり、バウハウス的でもあり、ド定番の「正解」なアイテムであるが、そのコンセンサスに頼ることは危険を孕む。危険とはつまり、『男のマジメ服』というか『ビギン君』と混同しないで済む方法がセットでなければやはり脱オタ指南の延長ではないか、ということだ。元より脱オタが張り切りすぎて中二病モードファッションに走る姿への揶揄というコマーシャルな一面がSUKEBENINGENのブログにはあったが、コマーシャルとアカデミズムを分けて考えることを提唱する本人がアカデミズムなきコマーシャルな言説を撒き散らしてしまう危険がある。「それはハイコンテクストなノームコアです」と一言で言い切れる程度の強度しかないのなら、ニュアンスを捕まえるどころかむしろニュアンスに引っ張られすぎているのではないか。


村上隆芸人のすべらない話

“>「例えばルーブルモナリザの隣に何を置けば一番貶められるか?」から逆算してもいい。ウォーホルのキャンベル缶が素晴らしいのはそれを一番貶めるからだ。

これには続きがあった。「〜さらにウォーホルのキャンベル缶の隣に何を置けば貶められるか?その点でいえば、村上隆ヒロポンちゃん(露悪的にディフォルメされた巨乳のアニメ美少女が自らの母乳で縄跳びしてる実寸大フィギュア)は戦略として正しい」と書いた。”

アートの話でいつも村上隆を賛美するのって、とりあえずやっとけば取れ高OKみたいな、テッパンネタ?アカデミズム的には、名前を挙げるべきはコスースやソル・ルウィットだろう。ウォーホルが示したのはあくまでもキャンベル缶のおもしろさまでで、コスースらはそこから更に進み言語的問題へと還元した。熱いポップ・アートから冷たいコンセプチュアル・アートの始まりだ。ウォーホルが「芸術のネタ化」なら、芸術創作行為そのものをラディカルかつシニカルに批判した彼らは「芸術のメタ化」だ。『制作行為に意味はない。アイディアが芸術の作り手となる。』


“「あなたの論法だと村上隆オリエンタリズムの芸者ではないのか?矛盾するのではないか?」という反論にも答えなければならない。話がややこしくなるな、と思い、村上隆の記述に関してはバッサリと切った。

まず村上隆オリエンタリズムな芸者では無い。”


“それにそもそもオリエンタリズムは非アカデミックな作家がやるもの、村上はアカデミックの人。あくまでネタだ。”


これもまた村上隆に頼ったいつものテッパンネタだ。いったいこの”アカデミック”の定義はなんなのだろうか、皆目見当がつかない。日本で(世界的に見ても、と評されることもある)アカデミックな作家というと岡崎乾二郎がいるし、本気でまったく面白くない彼のマンガの方が落差の位置エネルギーもある。アカデミック作家の筆頭たる岡崎が描いて、アカデミズムの批評家たちがまったくくだらないと一笑に付した例のアレだ。また通常、アートにおけるアカデミズム派というと美学系もしくはフォーマリズム系を指すのではないか?村上隆はそういう意味ではまったくアカデミズムではない。武蔵野美術と美術手帖の違いと言えばわかりやすいだろう。あるいはシンディ・シャーマン森村泰昌を比較して、とある有名アカデミックな批評家は一方を『吉本芸人』だと皮肉ったわけだが、無論、どちらのことかはわかるはずだ。



△マルジェラ÷2

“マルジェラのレプリカシリーズは〔中略〕表層的な新しさというよりファッションのモードという領域の概念そのものを拡張している(コムデギャルソンまでは表層の拡張どまり)。

アヴァンギャルドはカウンターが目的なので日常生活で着る服としてはバッドデザインになる。意義が重要なので。よりアヴァンギャルドをエクストリームすればするほど日常服としては齟齬っていく。コムデギャルソンはコレクションで発表した服は全て商品化してたが今はもうしていない〔中略〕

マルジェラはまず良きリアルクローズがあり、それをいかに先鋭的にみせるか、だと思う。”


“マルジェラ以外のアヴァンギャルドと言われるデザイナーらの「より過激な事をしなければならない」「リアルクローズは怠惰や迎合であると低くみる」、そういったクリエイションへの強迫観念はアートコンプレックスの裏返しである。ベースにアカデミックが無いので恐れから、クリエイションをバンジージャンプの様なものに見立てる。”


マルジェラはなんとも割り切れないデザイナーである。例えば古着の引用は優れてレディメイド的でありかつフォーマリズム的にも解釈できる。リアルクローズをたしかに作ったが、トランプや王冠でできた服なんてギャルソン並みにバッド・テイストな代物だ。アテリエや1LDKの人間すらそんなもの着るわけないだろう。(もっとも、これをレディメイド的と擁護したり、あるいは服作りの過程いわば「時間性」を表現するメタなものと批評する者もいるが、それならば「リアルクローズ」として評価するSUKEBENINGENと彼らを比べるとやはりSUKEBENINGENのリテラルさばかりが目立つ)

ギャルソンは四本も袖のある服を作って、マルジェラはシームのないパンツを作った。「マルジェラは服の構造をミニマルに問い直した」と言えるが、角度を変えた相似形として「ギャルソンはマキシマムに服の構造を問い直した」とも言えるだろう。ミニマルといえば聞こえはいいが、表層の問題を問い直すという意味ではどちらも等価だ。偉大なものは多義的である。マルジェラは多義的であるがゆえに、その作品の何を評価するかで批評のポジションが決まる。僕はそのためにいっそ、傑作主義者になるべきだとすら提唱する。

ギャルソンであればコレクションアイテムは最低でも白シャツは最高だ。マルジェラであればコンセプチュアル系は最低だがレプリカ系は最高だ。ピカソの『ゲルニカ』は最低だが『アヴィニヨンの娘たち』は最高だ。こうすれば斯くの如く、僕の立場はご明察だ。


△ハイコンプレックスなノームコアになる理由


“教養のない人にはただのローファイにしか見えないが、教養がある人にはそのローファイらの(意図的なルールに則った)セレクトやミックスから裏にあるハイファイなイデオロギーが読み取れる。それがハイコンテクストなローファイであると理解できる。”


“「ファッションもアカデミックデザインである」と世の中に認知させる、それが一生をかけて三宅一生が実現させたテーマだった。

だが実際にやった方法は「アカデミックデザインをファッションに持ち込むことは可能である」であり、既存のファッションのやり方の延長ではアカデミックデザインにはならない、と三宅一生自身が証明した訳だ。〔中略〕

だから「ファッションはアートである」も同じく、美大でアート(現代アート)を学びファッションに持ち込む事になる。既存のファッションのやり方の延長ではなく(だからもし「アートな服をやるなら美大で現代アートを学べ」に反論するなら三宅一生も否定すべきだし、三宅一生を担保にしてる川久保玲山本耀司、さらにそのフォロワーあたりまで全部筋を通して否定すべき。日本のアヴァンギャルドと言われるようなデザイナーはぜんぶ三宅一生のアカデミズムにぶら下がってるのだから)。”


巻頭から間二章分の蛇足を挟んで最終章、問題の「ハイコンテクストなノームコア」についての説明である。だが、著しく残念なのは上記引用の通り、着こなしのリテラルなレベルの語りである。しかし、着こなしのレベルでの語りしかできないのはなぜか?

答えは単純なように思われる。「ファッションにはモードなど存在しない」ためだ。白いカラスは存在しない、街に黒いカラス族がいるだけだ。確固たるモードの体系など存在したことがない。モードもアンチ・モードも『モードの地獄』に捕らわれ、モードを恐れすぎている。執拗にアンチ・モード(アンチ・アートコンプ)を語ることは、モード(アートコンプ)を克服するためのバンジージャンプ(成人の儀)にすら見える。


以下は完全に蛇足である。

ちなみに僕はイッセイミヤケを物心がついた時から否定している。肯定したことなど一度もない。イッセイミヤケの服はA-POCなどとてもプロダクト的だと思うが、それは要するに非身体的という意味だと僕は捉えている。誰でも着られることで「サイジング」の問題を解決したが、そのような服飾事情的テクニックなんかより、ユニクロが各サイズを大量生産することの方がずっと「プロダクト的」である。誰であってもユニクロに行けばまともな服を着られる。そしてA-POCより安くオシャレで画一的である。『イッセイミヤケ』とは、単なる疑似問題のひとつでしかない。

《書評》『ハイコンテクストなノームコア』は、じつはSUKEBENINGENの騙りである。

ネット・ファッション批評家SUKEBENINGEN氏の書いたとあるコラムが雑誌『FREE MAGAZINE』に掲載されている。私は氏の古参ファンであるため、この見開き2ページ足らずのコラムのためだけにわざわざ渋谷のCANDYというショップにまで取りに行った。Gドラゴンlikeなスタッフが一階でたむろし、二階ではタロウホリウチが鎮座ましまし、三階にはビレバン雑貨がひしめき、なんとも不思議なショップだった。戸惑いつつ愛想の良さそうなGドラゴンに何も買い物はしないが『FREE MAGAZINE』だけが欲しい、という旨を伝えると丁寧にショッパーにまで入れて持ってきてくれた。素晴らしいショップだと思う。この場を借りて改めて謝辞を述べたい。


さて、本題である。


「アートのルールとファッションのルールは違う」。これはSUKEBENINGEN氏の一貫した主張であり、まったく正しい。異論の余地も議論の余地もない。ファッションのテクニックというのは元来「服の表層」の問題が全てであり、これを"イリュージョン"を実現することと比喩的に呼んでもよい。対して、(現代)アートのルールはイリュージョンのためのテクニック=ローコンテクストで競うことを骨董扱いし、そのテクニックがなぜアートたり得る(た)のか、という風なより抽象的なアート成立の概念からメタ的に問い直すことをアートの条件としている。


ローコンテクストからハイコンテクストへ。こうした"イリュージョン"的なテクニックから離れ近代以降は記号の価値が弥増すことになるのはストリート文化において既に散見されてきた通りだろう。言うなれば戦場が「服の表面」というよりも「服の表象」へと、ルールが改訂されたのだとまとめても概ね間違いではなかろう。SUKEBENINGEN氏が具体例としてあげるようにマルジェラはまさに表面を否定して表象へと移行する「エポックメイキング」だった。アンチSUKEBENINGENのファッション批評家、蘆田氏も同様にマルジェラをひとつの転換点として挙げているように、史観のコンセンサスとして前提におかれなければならない。


マルジェラ以前は「服の表層」のローコンテクストで争うことがルールだったが、マルジェラ以降は「服の表象」というハイコンテクストで争うことになった。表象にとって表層は単なるイメージの媒介となる素材=メディウムでしかない。よって表象にとっては表層などなんでもよく、まったく新しくないもののサンプリングだろうとアプロプリエーションだろうと表象の新しささえあれば許されるのだ。古着をそのままコレクションに並べたマルジェラはこのメソッドの一例だろう。


以上のように一部を勝手に補完しながらSUKEBENINGEN氏の論旨をまとめてみたが、概ね同意してくれるはずだ。しかし問題点と認識の誤りを指摘しておかなければならない。



細かなことだが「アートやアカデミックデザインでは既にサンプリングが主流である。」という主張はいささか古い。椹木野衣の著作に似た主張はたしかにあったが、主流であった時期などとっくに終わっている。もはやアートにそのような"主流"などという流れはほとんど存在していない。(付言するなら、アンダーカバーをノイズから批評する論考も世の中ではずいぶん前に出版されている)


また同時に指摘しなければいけないことだが、アートのルールなどというのもとっくに散逸し、独占的なルールなどない。現代アートはそこまで徹底的にマーケットへと"解放"されているのが実状だ。例えば村上隆がペテン師として批判するようなポルケやリヒターはなんだかんだ立派に活躍しているし、絵画も二度死ぬどころか何度も死んでは復活し復権されてきた。アートのルールというのを確定的に求めたある批評家はポロックからリキテンシュタインまではその「ストローク」で評価することができても、当時大攻勢のハイパーリアリズムのような聳え立つクソの前に跪いて筆を折ったりもした。現代アートの内部で最もアカデミズムとして有名なとある学派はウォーホルの使用する既製品は既製品のフォルムの美しさを抽出していると評価し、かたくなにポップアートの記号的挑発には屈しない姿勢を見せたりもした。今日でも、関係性の美学なんて体系的な議論がないまま十数年間ずっとホットな議題である。ざっと見てもあまりにも混沌としているアートの動きを十把一絡げに「アートのルール」とまとめあげるならば、そのようなものは無規定・無内容に等しい。(また付言するなら「アートのルール」などというものよりよっぽどアカデミックで厳正な「美学」をなぜアート側は無視し、SUKEBENINGENもまた無視しているのかは根が深い)


あるいは、少しひねってコンセプチュアル・アート特有の「批評性」というダイナミックな定義にしてみても、その批評性はファッションに内在するものではないために借りてきたものを当てはめているだけで、内容は余りにアブストラクトである。氏はキッチュアヴァンギャルドな服=モードと敵対する形で新しい概念「ハイコンテクストノームコア」を提示してみせるが、そもそも十分にモード(ファッション)の理論が打ち立てられたことが有史以来一度としてないために、何への批評性なのか、どのようなものと敵対しているのかがわからないのである。唐突に着こなしのレベルでファッションが語られるために「いかにもモードらしいファッションをすべきでない」という程度の、脱オタ指南の延長的な主張に落ちてしまってはいやしないか。全ての服がフラットであるならば「いかにもモード」の装いをすることもまた「デザイナーのイデオロギーやコンセプトを極力無視する」ことに当てはまることもありえてしまうのは当然のこととして、いったい誰が、何を、どのようにして「無効化」していると判断可能なのだろうか?"アヴァンギャルド"と"リアルクローズ"との境界は—— 何度も言うがファッションの理論が有史以来打ち立てられたことがないことと同じく—— 一度も定義されていないため甚だ曖昧である。


そして美術史のおさらいを念のため最後に。「ヨーロッパからアメリカがアートの覇権を奪ったような方法」は、ウォーホルがルーブルモナリザを貶めるためではなく、クリントンがアートマーケットに国策として金をバラまき、伴って批評家がより強力な理論を打ち立てヨーロッパから絵画をアメリカの美術館に引っ張ってきたからだ。皮肉だが、政治家が金を出すことほど"ハイ"な方法はないだろう。


さて、この書評はひとつの疑惑をもって結びたい。

同じような欲望を持つ非アート、非アカデミズムのワナビーらのポピュラリティ稼ぎをするSUKEBENINGENこそが真のアート・コンプレックスかつワナビーであり、糾弾されなければならないのではないか?自分が名誉アート側からファッションに向かって蜘蛛の糸を垂らしているといったつもりなのだろうか?

それはなんとも"ハイ"(ガンギマリ)な方法だ。"ハイコンテクストノームコア"(複雑なだけで凡庸極まる)。

「LIPO6」――アンダーグラウンド・オシャレダイエット

こんばんは。

カルフォルニア在住のボディビルダーに魂を売りました。

現在ダイエット生活2週間目突入、10日間で減った体重は3キロほど。

そんな僕のハーコーなダイエット法についてまとめてみたいと思います。

 

@ カロリー制限

@ ダイエットサプリ

 

やることはこの二つのみです。本当は運動もした方が良いのでしょうけど、めんどくさい。

汗をかいて洗濯物を増やすのもめんどくさい。

というか運動なんかに貴重な時間をとられてたまるかよ。

忙しい都会派オシャレピープルは効率重視、土くさいダイエットなどしてられません。

 

「食べず動かず金もかけない、耐えるだけダイエット」

 

以上が最重要コンセプトです。

あと苦しいのイヤなので天井のシミを数えている間に終わるくらいの短期間を想定しています。

 

1.カロリー制限

「痩せる」とは煎じ詰めれば消費カロリーが摂取カロリーを上回ることです。

どうすれば前者を増やし、後者を減らせるかという細かなテクニックはあれど基本的にはこの差を大きくすることがダイエットです。

でも前述の通りで運動はめんどくさい。なら摂取を減らせばよかろうもん。

メリットは以下の通り。

@ 食費がかからない

@ 時間がかからない

費用のコスト+時間のコストをなるべくかけず「ハイ・コスパ」を目指します。

実践編

@ 朝飯は食べるな

朝は抜いても1日のクオリティーに大して影響はありません。どうせ頭が働き出すのは午後から、それまで空腹であろうと問題なし。後述のサプリでカフェインとっておけば余裕で乗り切れます。僕の場合は、食べたい日は鶏ハムを100g程度、または味噌汁を食べてます(カロリー200未満に)。

@ 昼飯は炭水化物抜き

昼はさすがに何か食べないとスタミナ切れを起こします。だけれども現下では血糖値の低い体に糖(炭水化物)のごほうびはドープすぎる、間違いなく眠気もセットでやってきます。サラダ+何か(冷や奴とか納豆とかタンパク質多めのもの)がベスト。ちなみにドレッシングはダボダボかけてます。都会っ子としては素のままのサラダなんてびんぼっちい真似したくないですね。

@ 晩飯はカロリー逆算して自由に

(1000kcal~1300kcal) 引く (朝昼で摂取したカロリー)= (晩飯で食べていいカロリー)

以上が晩飯の条件です。僕は好きなの食べてます。ケーキとかチョコとかステーキとか。ここ一週間はオクラカレーです。あとお酒も普通に飲んでます。でも朝昼食べちゃった日は炭酸水だけ飲んでフィニッシュ。

反省点

こんな生活を1週間ほどやってみてですが、なんとかなるもんです。

むしろ現代の豊かさにあふれた生ぬるい生活よりもアグレッシブな生き方をできたと思います。想像以上のつらさ、というのは起こりませんでした。

カフェインで神経が昂ぶってさえいれば多少のめまい、飢餓感、貧血なんてなんのその。

とにかく、耐えろ!

 

 

2.ダイエットサプリ

さて、ここからがみんな大好きカラダニイイお薬についてです。

カルフォルニア在住のボディビルダーが言ってました。

LIPO6がよかろう、と。

 

http://www.powerbody.fr/site/medias/lipo6black_01.jpg

 

ダイエットサプリのカテゴリー

ダイエットの効率をよくして短期決戦。

忙しいアーバンカルチャーピーポーはなにごとも効率重視なのです。

サプリを使ってとっととケリをつけるのが、われわれモダニストの流儀でしょう。

ということで色々と調べてきたのでまとめます。

 

ダイエットサプリには大きく分けてふたつのカテゴリーがあるそうです。

@ サーモジェニック(発熱性)

@ リポトロピック(脂肪親和性)

脂肪燃焼の効率に関わるのが前者です。後者は脂肪を付きづらくするためのものです。

ここはオシャレファッションブログなので、前者をオシャレ用、後者をデブ用と呼びたいと思います。

 当然前者にしか興味はありません。

そしてサーモジェニック系の作用というのは主に、体温の上昇で基礎代謝UP、脂肪をエネルギーに変えやすく、甲状腺の働きを活発に、といったものがあります。

甲状腺をいじる(商品名:アニマルカット)とかさすがにやばそうなので、基礎代謝UPと脂肪燃焼系で考えていました。

 

もちろんサプリなんかに大した効果は期待していませんので、メインはあくまでカロリー制限、その補助になるものを。あくまで補助なので過大なうたい文句のものはスルー、効果がやばすぎるやつもスルー、あと値段が高いのもスルー。そんなこんなで色々と探していました。

 

LIPO6について

探していたところカルフォルニア在住のボディビルダーが推薦する、とあるサプリが僕の条件にベストマッチのようでした。

 

@ カロリー制限の停滞期を越えろ!

@ カフェインで騙しきれ!

@ 意識を高くしてプラセボも狙え!

@ ボトルがオシャレ!

 

その名も――

 

"LIPO 6 BLACK"!!

--THE END OF THE LINE UNDERGROUND FAT DESTROYER--

(※本当にこう書いてある)

 

ググってみた情報をとりあえずまとめると↓↓

 

@ わりと老舗メーカーらしい

@ ボディビルダーの間ではよく使われるらしい

@ 受賞歴 ‘Fat-Loss Product of the Year’ in 2005, 2006, 2007,2008

@ ヨヒンビンでビンビン(YABAI)

@ 3錠(1回分)でカフェイン200mg(コーヒー2~3杯分)

@ 激安(他のサプリ同量と比べて1000円~3000円くらい安い)

@ 今のところ数年間は危険という報告なし(同種のものは報告あり)

@ ほとんどECAスタックみたいなもの(SUPER YABAI)

 

基本情報はこちら参照↓

http://jp.bodybuilding.com/store/nutrex/lipo6.html?_requestid=190814

 調べたところ絶食系ダイエットとは特に相性がよさそうでした。

特に含有成分「ヨヒンビン」が効果的なようです。

脂肪燃焼にはアクセルとブレーキになるアドレナリンが関係していて、ヨヒンビンは後者のブレーキがかかるのを邪魔するそうです。

なので減りづらい部位、太ももや腹まわりが減りやすくなるとか。

そしてなにより絶食系ダイエット最大の難敵「停滞期」も突破できるようになるとか。

 

あとダイエットサプリの世界で最強と名高い「ECAスタック」と呼ばれているものがあります。しかしこちらは規制中です。さすがにヤバすぎて死者が出てます。

そもそもECAとは何か、エフェドリン、カフェイン、アスピリンのことです。

エフェドリンとカフェインを合わせて飲むとヤバい効き目が発生し、更にアスピリンもプラスすると体がカフェインに慣れてしまうことなく効き目が長期間続くというサプリでした。

そしてヨヒンビンは、このエフェドリンと似たような働きがあるそうです。なのでLIPO6はECAスタックのマイルド版……と考えていいのではないでしょうか。

つまり「ちょっとYABAI」ということですかね!

ちなみにヨヒンビンは摂れば摂るほど効果がでるというものではないそうなので、他のヨヒンビン配合サプリよりも少量(3mg)しか入ってないLIPO6がちょうどいいような気がしました。これもエフェドリンと同じ特性ですね。摂りすぎ、ダメ絶対。

実践編

使ってみてよかった点です。

@ カフェインドバドバで眠気なし

@ 空腹感はふっとぶ

@ 体がほてって汗がよくでる

@ カフェイン切れの疲労感も思ったよりなし

@ イライラも起こっていない

@ ヨヒンビンでビンビン

 

対してデメリットもあります。

@ 眠りが浅く

@ 食欲なくなりすぎて摂食障害と隣り合わせな感覚

@ 膨満感(特に初回は悶絶するレベル)

@ 汗からあぶらっぽいにおい

@ 電車にのってるとボーっとする

@ 静かな音楽が聴けなくなった

@ ヨヒンビンでビンビン

 

他の人の使用報告例とだいたい一致するものでした。

想像以上にやばいものではなく、カロリー制限ダイエットを内面から補助してくれるサプリとして考えるとかなり優秀なのではないかと思います。

特に空腹を抑える役割はかなりのものです。

この一点だけでもオススメできますね。

 

こまかな話

省いてしまっていたところを書き出しておきます。

@ 毎食後のビタミン・ミネラルのサプリ、少し多めに摂ってる

@ ついでにCLAも摂ってる、飲み合わせは大丈夫なよう

@ あと脂肪燃焼効果期待してマカのサプリも摂ってる

@ 会食するときLIPO6は飲めないのでその時用の代替サプリあり(後述)

@ 酒とタバコは全然問題なし

@ サプリ選びに重要なのはカプセル数、多いほど1粒単位の調整ができるため

@ 1日6粒も飲むLIPO6 BLACKはその点で理想

@ LIPO6はいろんな種類あってhersが女性用、あとこっちはわざわざリスク抱えてるのに白ボトルのライト版を選ぶ意味ってよくわからないのでBLACKがベスト

@ BLACKのULTRA CONCENTRATEは濃縮版で1粒単位の調整できないから却下

@ 太ももには確かに効果があって現在マイナス4センチ

@ でもふくらはぎは全然細くなってない、筋肉を減りづらくするという効果は本当っぽい感じ

@ コンセプト的には筋肉ごと減らして細くしたかったので今後の経過に期待

@ 汗くささをごまかすためにダウニー多めに使って洗濯、干したあとも薄めたダウニーをスプレーでシュシュ

@ 自分ではくさいと思う瞬間もあるが、ニオイに敏感な同居人からは汗くさいと言われてない

@ たぶん想像通りの身体へのマッシブアタックがやってくるので(特に初回)、もし使うならそれも楽しむ感覚で

@ ECAスタックについて、パブロンバファリンで再現可能、要するに使用法と用量か

@ ためしにパブロンゴールド顆粒(エフェドリン含有)と併用してみたけれど変化はなかった

@ 僕は元々趣味で断食する人なので、「断食が楽しくなる」という観点を共有してもらえるとわかりがいいと思う

 @ LIPO6の成分は公式が全然アナウンスしてない、パッケージ裏読むと爆笑するので届いたら確認するのオススメ

オススメ品

買うならiherbがオススメです。適当に見てみた他サイトよりも安い。あと日本語対応していて簡単。

注意事項として、個人輸入できる量がヨヒンビンは2ヶ月以内という制限があるので、120カプセルのボトル1つだけにしといた方が無難なよう。

現在3700円程度。

リポ6ブラック

アンダーグラウンド脂肪デストロイヤー

120ブラックカプセル

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あと脂肪燃焼効果を狙ってCLAも飲んでいる。カルニチンでもいいと思うし、お金に余裕あればどっちもあっていいと思う。オメガ3もあっていい。どれも安いし似たようなものでしょ。

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僕には関係ない話だけれども、オッサンたちは7-ketoも一緒に飲んだら良いのでは無いかと思う。要するに、成長ホルモンが減ってきている分を補うという意味で。リスクとかはググってもらうとして、その昔に僕がためしに一ヶ月使用してみた感じだと副作用はなにもなし、若いからか効果もなしという感じだった。効くという話はそこそこ効くので20後半からはアリかも。安いし。

 

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ついでにダイソーで売ってる「ビタミンミックス」と「ミネラルミックス」もオススメ。

入手の容易さでバリボリ飲める。もちろんiherbで気に入ったビタミンやミネラルを注文してもいい、というかそっちのがオススメ。海外製のがサプリは優秀かつ安い。

あとさらについでに「マカ」と「ダイエットサプリ」も僕はダイソーで買っている。

マカは脂肪燃焼作用がすこしあるっぽいから気休めアンドプラセボ、「ダイエットサプリ」は要するにカロリミットと同じようなもの。これも気休め。LIPO6飲めない時は代わりに飲んでる。ただしこの「ダイエットサプリ」と「CLA」は一緒に飲むと水溶性食物繊維の効果で脂肪酸の吸収が減ってしまうそうなのでどっちかにしたほうがいいらしい。

どうせ大したもんじゃないから別にいいんじゃないかとも思うけど。

 

あと全然関係ないけれど皮膚炎もちとしてはこのシャンプーもオススメ。iherbだとやたら安い。60ドル以上で5%割引がつくのでいっしょに注文するといいかもしれない。タール入りで明らかに症状が改善された感じがあった。国産シャンプーは効果弱すぎアンド高すぎ、今現在愛用中。タールはマジで効く。危険性はどうやら過剰反応っぽい。

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クーポン

iherbで使うと5ドルから10ドル安くなるクーポンコード「KTT467

これを使うと僕にも5ドル分のクーポンが届く仕組みになっているのでちょっとうれしい。

また別に、公式クーポンに「BUY123」というのがあって、これを使えば誰にも得させないで自分だけクーポンの恩恵を受けられるので僕に儲けさせたくない人はこちらを。

↓こんな感じで注文時に入力すればおk。

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and more

日本語で調べると僕がここに書いてある以上のことはあんまり書いてなかったので、英語でググるのをおすすめ。

僕は時間的コスト払って熱心に細かく調べてはいないので注意。

「トーキョー・ファッション」の現在完了形(経験)――ハトラ・クロマ・バルムングに「いってきました」

 さること幾年月。ハトラとクロマ、バルムングの展示会に行った。このチョイスは恣意的である。というのも他の「トーキョーファッション」より"おもしろさ"に欠けているからである。視力の落ちてきた最近の僕にとってまだ目に優しい部類に入るがゆえに取り上げたいのだ。

 おおざっぱに括るなら「オタク系」というべきか「アキバ系」というべきだろうか。僕の世代のキーワードは「萌え」である。はじめて「萌え」という言葉を聞いたのはネットのニュースだった。ネットで流行しているオタク言葉として、オタクを自称する身でありながら他人事のように知った。いったい誰が「萌え」なんて言葉を使っているのか、周囲のオタク仲間からもそんな声が上がる中、いつのまにか、たしかにネットでもよく見るようになり、いつしかオタクの代名詞にまで昇華してしまっていた。そこはかとない疎外感、社会から挫折した者をオタクというのなら、オタクであることにすら挫折感を味合わせられた僕を、いったい何に喩えるべきか?

 大した話では無い。要は、オタクがいつの間にか「否定的なもの」から「積極的なもの」に変わったということを言いたいのだ。しかたなく、どうしようもなく、強いて言うならまぁ「オタク」かな?と名指されるものが、我々は、我こそは、まさに「オタク」であると僭称されるようになったのだ。展示会で盗み聞きした話を勝手に書かせてもらうが、ハトラの永見デザイナーが「最近はハトラがモテ服になってる」と言っていた。キモオタっぽいデザインなのに?(くれぐれも悪口ではない)これを似たような話のように聞いていた。なるほど、バッド・ステータスがいつの間にかグッド・ステータスになる現象というのはそこかしこで起こることなのだ。

 しかし誰が許せよう?この後続のグッド・ステータスに群がるニワカたちを?歴史的な継続を、オタクの遺伝子を、このニワカたちは持つのだろうか。同じレッテルを背負うはずの彼らは、我々のバッド・ステータスの嫡子なのだろうか。ただしこの問いの立て方は不正である。バッド・ステータスもこのように僭称されるならたちまちの内にグッドに転じてしまう。バッドなアウトローは背中でニヒルに語るしか無い。――よって許すしかないのだ。

 「背中で語る」と言えば、そう、「日本のアニメやキャラクターしか注目されないのは残念」とメディアで語る「服で勝負」をモットーにする山本耀司デザイナーである。オタクのステータスに浴さない氏がこうも易々と批判してのける理由は、単に外側に立つというだけでなく、外側から見るとオタク系のデザイナーがディスケードを握る「群れ」に見えているからだろう。

 一時代を築いた氏の提言から転じて、ではいったい、これら「オタク系」を「服」として見たらどうだろうか?

 

 ハトラの特徴的なデザイン、「部屋」をキーワードにするフードについて――しかしもちろんそのような「コンセプチュアル」なテーマに引きずられ判断を誤るのではなく、真実に見ることからはじめるべきだ。よって、フードについてはどうでもよい。

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hatra 2014~15秋冬コレクション | Fashionsnap.com

 基本的にハトラのデザインとは、その特徴的なフードのボリュームをどう裁くか――ではない。むしろ裁かず宙づりなままであり、2014FWでも概ねそうである。そのために起こる奇妙な男性的とも女性的とも言えないような造形は、単にバランスをとらないがために起こる――例えばカーテンや雑巾をその形でいちいち男性的とも女性的とも形容しないような、そうした"取るに足らないもの"――「オブジェ」の効果であり、ディティールそれ自体が無性的であるために言えることである。ユニセックス系(アセクシャル、ノンジェンダーほか)のデザインの大半はこの効果でしかなく、ミキオサカベもそのようなごまかしのデザインを多く使う。そうでないものはJWアンダーソンが興味深いが、関連しないため別稿に譲る。

 さて、先述では"概ね"といったがその例外が上記の1点である。わずかに斜行したジッパーに左肩から切り替え線が入っている。ここで接点からの上下がほとんど等分されるが、また一つの主要なディティールである左ポケットまでの身頃も等分される。そこで中心へと重心がかかり安定した構成となっているが身体とともに構成的であるというのではなく、身体の強さに耐えきれずエクスキューズとして引かれたものであり、いかにもオタク然としたナイーブな表象「部屋」の源泉なのである。外れつつ中心に寄る重心は他のコートやロングのパーカーも同じ特徴である。ただしこの上記の1点が優れて特徴的なのは、デザインへの意志の露呈である。それを一つの表象として「部屋」と捉えることは幾つかの中の一つの指向性でしかなく、更にその「部屋」から発展して連想をふくらませるのなら最早どのような関係もない言説へと至るが、それでもある優れた意味を造形から発露させることは十分に意義がある。

 

〈続く〉

【読書レビュー】ファッション批評誌『vanitas』No.2(旧名:fashionista)とはなんだったのか?後編

『まなざしに介入するファッション  ―「ショー」という観点から―』

「1.ファッション批評は更新できるのか?

本稿は問いを次のように限定する。すなわち「ゼロ年代的以降のデザイナーのクリエーションについて"ポスト鷲田清一"的な作品批評は如何にして可能か?」である。」

  本稿は大変におもしろい。なぜなら筆者は鷲田清一北山晴一を批判するのだ。ファッション批評という時にそれらの名前に触れねばならぬ若きインテリジェンスの悩みがここにある。ただしはじめに言わねばならぬこととして、本稿はとてもつまらない。とりわけラカンとジジェク東浩紀(できるならメルロ=ポンティドゥルーズ、ガタリも)を知らない人間にとっては、とてつもなくつまらないだろう。一応、個人的な感想をはじめに述べるならばとてつもなくおもしろかった。なぜなら僕も一度は鷲田清一の『モードの迷宮』を手に取り頭を悩ませた身である。難解だからではない、意味不明だからである。そうして反論を練ろうと試み、ノートを作ろうとしたこともある。しかし失敗した。なぜなら鷲田清一の論述に一貫性を読み取れなかったのである。それでは批判する意味もなかろうと黙殺することに努めた苦節、本稿が代わりにやってくれているのである。喜ばないわけにはいくまい。ただしそれだけに批判の仕方に不満がある。

 第一に筆者は「90年代型批評」という言葉を使うがこんな言葉、不毛なファッション批評の世界には存在しない。2人か3人ほどの個人名をあげれば十分なだけでムーブメントなんて存在したことがない。よって、そのような型にはめてしまうのは不当だろう。でなければせめて文芸とサブカル批評における「90年代型批評」を指すものとしなければいけない。

そして同様に「ゼロ年代」という言葉も不適切である。実際に個別の批評対象として取り上げるシーズンが「ゼロ年代後半」しかないように、やはりそんなムーブメントはない。あるとしても「ゼロ年代」の呼び名は不当である。

第二に明らかにあるべき『存在論的、郵便的』の書名の不在である。基本アイディアのソースなのだから記すのが親切だろう。それに、本稿の論述よりやはり東浩紀本人の論述の方が読んでいて分かりがよいはずだ。実直に哲学書を引用しているだけにこの一冊が無いのは熱心な読者にとって惜しいように思う。

 ところで本稿の終わりには個別の批評がある。リトゥンアフターワーズ、ミキオサカベ、シアタープロダクツ、ケイスケカンダを筆者の語る視点「まなざし」から論じてゆく形式となっている。そちらの方は"批評的に"おもしろいだろうから、是非とも読んでいただきたい。

ネガティブに見えるかもしれないが、本書中で本稿は個人的にもっとも「ファン」である。よってこれはエールなのだ。人は誰しも傷つけ合うことでしかコミュニケーションのとれないケモノなのである。(歪んだ愛情)

 

リアルクローズ化する「マンガファッション」』

「本論ではこの少女マンガのファッションの3次元化のことを、竹村氏の著書から借りて「マンガファッション」と称し、どのようなものが「マンガファッション」にあたるのか、マンガとファッションはいつ・どのように・なぜ融合していったのか、という2つの問題を解き明かすこと、および「マンガファッション」の定義を明確化することを目的とする。」

   キッチュな論かと思い読んでみると至って真面目な論考となっている。単純におもしろいものだ。おいしいところだけを語ってしまうのは惜しいため、語ることを避けたい。晦渋も衒いもない。そして恐らく今後の批評に繋げるのに『vanitas』内で最も将来の広がりがあるのではないだろうか。

critical essay
『ハトラ ―「中性的なものの」力学―』

「マンガやアニメにおけるパーカーはしばしば現実にはあり得ないほどのヴォリュームをもって描かれているということだ。…それに対して長見は、むしろ現実のフードの方を、虚構のフードに接近させようとする。」

「(90年代以降の日本のファッションにおいて)マンガやアニメからの影響が主にその意匠的な側面に限られていたことを考えれば、そうした意匠に対する長見のすがすがしいまでの距離の取り方」

「今この時代に到来しつつある未来、すなわち男性/女性の止揚の結果としての「中性的」という形容すらも中性化する、新たなセクシュアリティの姿に対する想像力でもあるだろう。」

 今現在、本書を読んだことのある聡い読者は気づいたことだろうが、p194からはじまる本稿を開くと驚かされるだろう。"「中性的なもの」の力学" ではないのだ。そう、これは誤植なのである。この驚きを再現するために当ブログの見出しはこちらに準拠する。

 このご時世でパーカーに血道をあげる異端なブランド、ハトラについて本稿は「二次元と三次元」「部屋性」「中性的(neutral)」「中性的(asexual)」といった視点から論じてゆく。もちろんオタクカルチャーが基点にある。僕のようなデジタルネイティブ世代にとっては「<モード/ファッション>対<オタク/ギーク>」といった図式に古さを感じるだけに、興味深い。そしてファッションにおける性と身体の関係についてもまた、ファッションリテラシーがついたころにはエディ・スリマンのゲイゲイしいスキニーさが流行っていた世代だけにまた興味深いものである。

 だからこそ惜しい点を述べるなら――ここで語られる「性」あるいは「中性的」とは形態的な問題でしかなく、前半部の「二次元と三次元の身体論」と後半部の「asexualな身体論」とでは断絶しているのではないだろうか。

ハトラによる中性化は「ユニセックス」なんてありきたりの方法よりもさらに過激な性の中性化である、というよりもはや「非-性(a-sexual)」ですらあるとするならばやはりそれは形態的な問題である。なにせ本当の「非-性」なんて「止揚」のすえの絶対知と同じくらい到来しないものなのだから。形態的な話に「性」という記号的な話をかぶせることで論点を先取りしてしまっているのではないだろうか。

よって、より正確に記述するならば「中性的、だが女性が着ている」と「中性的、だが男性が着ている」になる。「だが~」以下の省略によって現実の身体の問題はむしろ遠ざかってしまい、広がりの余地を無くしてしまっているように思える。

また、グレー・パーカー・スウェットというよくあるものだからこそ比較はしやすく、中性的な色と素材によってその効果を幾重にも増している、として前半部と後半部は結ばれるがこの楔は弱いのではないか。やはりそれは形態的問題なのだから、二次元の「表現」と三次元の「表現」の実際を取り上げなければ見えてこない問題のように思う。僕が"形式"主義者だからこそ、そう思うのかもしれないが。

「部屋性」というおもしろい観点があるだけに、惜しいように思えた。

『「雲のような場所」を巡って ―ASEEDONCLOUD試論―』

「種とは、未だ形をあらわさない可能性の存在である」「場所とは、人と人とのコミュニケーションの受容器であり、物語の発生装置である」

「イメージが加速度的に消費される現象は特にファッションには顕著に見られる。…グローバリゼーションの波に席巻されるにしたがい、世界はあらゆる地域でその場所固有の価値が失われてきた。」

「場所性を見失ったファッションは、必然的に身体、あるいはより非人称的なイメージの追求へと流れ着く。…前者は80年代コムデギャルソンやヨウジヤマモト、後者は20471120やビューティービースト

「本来ファッション、いうなれば服を着るという行為は、自らの場所を擁護し、他者との共時的な場所/関係を作り出すものであるはずだ」

  単純におもしろくない。恐らく本書で唯一「嫌い」なタイプの批評である。(今までのは全部どちらかというと「好き」でした。愛情表現が下手なのです。あと筆者の名字に対する八つ当たりという線もありません。)

要するに筆者は、ギャルソンやヨウジを着るということはブランドイメージを借りてる個人の自己表現なのではないかと言うわけだが、恐らく否定的な意味で「エゴイスティック」と言っているようだ。そしてなんでブランドイメージを借りるのかというと他人に気を払うからブランドという権威を借りるのであって、本稿の言う「個人」というのは「他人」や「他者性」を意味するのだろう。ではいったい筆者の主張するところの「本来のファッション」はなんなのだろうか。僕には想像すらつかなかった。批評という形での単なるラッダイトもしくは自慰行為かと思えた。批評として最悪である。

と、ここまで貶せばむしろ本書未読の者が読みたくなるのではないかと目論んだステルスマーケティングであることを明かして終わる。

JUNYA SUZUKI / chloma ―ネット以降の時代―』

「「クリエイティブである」ということは必然的に非俗物でありあらゆるものから独立しようとするベクトルを持っていると思う。…個人の想いから生まれるものであるにも関わらず、他者との距離を遠ざけてしまうこともある。」

「実際のところ彼が本当に注目し意識している点はそのカルチャーの中に存在する記号や意味のやりとりだったりその構造だったりする。」

「サブカルチャーの要素で服の色を塗り直しただけというような、決してただのサブカルチャーの伝道師としてのファッションという意味ではないのだ」

  以前から特に注目はまったくしていなかったchlomaですが、本稿を読んでちょっと興味が出てきた。(展示会にも行きますよ)恐らく本書で一番おもしろい批評だろう。

 デザイナー同士の親愛や視点といったなかなか読めないものを得られるだろう。筆者がデザイナーであるからこそのものである。時代を振り返る資料やこれからの視点をより豊かにするのに貴重ではないか。特におもしろかったのが「プラモデル感覚」あるいは「フィギア感」という視点である。

さてそれにしても聡い読者は本稿を読んでいて、きっと一冊の書物を思い浮かべるだろう。そうだね、『日本・現代・美術』だね。著者の椹木はポップを「反映のポップ」と「還元のポップ」に分けて日本の現代美術の状況を論じた名著である。どのくらい名著かというと読んだことのない人間が現代アートを語るならば即時に無学無能無知と陰で叩かれるほどである。

chloma論でもいわば「反映のポップ」と呼ぶべきものは言われているが、果たしてではその対のものは同じ「還元」なのかどうか?確かめることで書評としたい。

その点を探るのに記述を引いてくると「フィギュアを所有しコレクションして集めて楽しむその所有者がフィギュアに対してどのような目線を向けているのか、そういう目線における感覚を服で表現したように想う。」とあり、つまるところ「反映」の対になるものとは感覚や体験、もしくは文化の構造といったものになるのではないか。

表現しているのは「内的な体験」or「文化の構造」のどちらだろうか。もし「文化の構造」なら「還元のポップ」とほとんど見分けがつかない上に、さっきの引用では明らかに前者「目線における感覚」なので、僕はここは前者で読み進めたい。しかしそうなると「体験を反映しているのではないか」という疑念は避けられずどうしても「反映のポップ」と距離をとれなくなってしまう。これは構成的な困難である。

 しかし単に構成的な困難でしかない。良い批評だと手放しで賞賛できる。ここから新たに論を展開することはいくらでも可能だろう。「考えてみたい」とか「今後も楽しみである」などと文末に書くだけで将来性を確保できるかのように勘違いしている論考とはまったく異なる。未読のchlomaファンがもしいるのならファン失格である。僕のような批評的にまったく異なる主義の人間ですらおもしろいと言うのだから、そのくらいのことは信じていただいて結構である。

『Ka na ta の身体を活かす服』

「ここにおけるmediumにはあらゆる身体(大きさ・形・性別など)にとって中立的であるという意味(実際にユニセックスのワンピース等が制作されている)の他に、媒介するもの、という意味が含まれており、環境と身体をつなぐ媒介となり得る服作りが模索されていたと想われる。」

「この絵画において生きた空間をつくりだし、衣はその流動性を留めることなく媒介しているように見える。ここにおける衣と同じように、Kanataのつくる"H2X"も、身体と環境に共有され、それらをつなぐ「水」ととらえられるのではないだろうか。」

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 本稿とはまったく関係のない話をしますが、僕は過去、ファッションにおける「空間色」というのを考えたことがあります。今でも考えていますが。空間色というのは要するにこの本稿も引用する絵において、湯気が袖にかかって何かを透して見ている感じの表現のことです。それで、ファッションにもこうした色彩の分析はあるのだろうかとかつて調べたことがありました。そんな論考見つかりませんでした。どこかの世界にはあるのかもしれませんがひとまず見つからず。もしご存知の方がいたらお知らせください。

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 総評

 『fashionista No.1』と違い、新興ブランドへの言及が増えたように思います。また哲学的な論考も以前よりも出来がよくなっているのではないでしょうか。僕はそういうのが好きなので嬉しいです。距離感というものが間違いなくうまく(もしくは読者側としての距離感が)よくなっていると思うのでfashionistaでいまいちと思った読者諸兄におきましても是非とものご購入をお勧めいたします。少なくとも価格不相応という不満はないかと思います。

 ネガティブに見えるかもしれないですが、『vanitas』の筆者の方々へは親愛の情をもって拝読させていただいております。よってこれはエールなのです。人は誰しも傷つけ合うことでしかコミュニケーションのとれないケモノなのです。(歪んだ愛情)

 

vanitas No.002 (送料無料)

※でもできれば書店で買った方が入荷する書店側が喜んで回り回って編集側の利益になると思うのでそっちを推奨。

https://www.junkudo.co.jp/mj/products/detail.php?product_id=0300000280

 

取扱店一覧(ちゃんと更新してないのかと思ったらしてるっぽい?)

http://fashionista-mag.blogspot.jp/2012/03/blog-post_05.html

【読書レビュー】ファッション批評誌『vanitas』No.2(旧名:fashionista)とはなんだったのか?中編

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『陳列とキュレーション  ―ユニクロ、コムデギャルソン、デミアン・ハースト―』

「作品の流通・消費、プロモーションの仕方までをデザインするハーストの作品は、量・反復性という点ではユニクロの陳列と、キュレ―ションという点ではDSMG(ドーバーストリートマーケット ギンザ)の陳列とも共振し、ハーストを補助線とすることで、…別の角度から接近できると考えるからだ。」

 

「膨大な量の集積、幾何学的数列がもたらす「崇高」にも近い感情は、ユニクロの陳列にもハーストの作品にも看取することができよう。大量に陳列されたモノ(商品)は、…資本主義社会の象徴でもある。」

 「噴水効果」や「シャワー効果」、教科書通りのVMDから外れた「壁面大量陳列」についても顕微鏡で覗くようにユニクロを語り尽くしている。

 そうした分析は十分に"批評"好きでなくても十分に楽しめるだろう。ところで批評的におもしろいところは、ユニクロの陳列を「過剰な反復性とフラットな平面という二つのエッセンス」として語る様である。思わずうなってしまった。

論旨は明瞭である。ユニクロとギャルソンの対比をその間にハーストを挟んで見てゆく。そうするとあるところでは共通しつつも背反する「透明性」と「不透明性」が現れるのだ。

ユニクロは顧客自身にキュレ―ションが求められるが、ギャルソンのDSMは川久保キュレーションが既にある。ユニクロはそれなりに使えてなんとか格好になる服というリスク回避の信頼がある、対してギャルソンは川久保への信頼がある。

明確にギャルソンとは川久保のカリスマ性によるものだと指摘しているようだ。しかし、「ただし、そのキュレーションは川久保という人間のブラックボックスに閉じられたものであるがゆえに、不透明性を免れえない」と文末には手放しでほめない姿勢を示す。(――果たして、この姿勢は唐突すぎではないだろうか?)

ハーストを語るときに「鑑賞者のリテラシーの程度に応じて、…わかる人にしかわからない不透明性」「素人にも衝撃を与える「わかりやすさ」という透明性」といった形で「透明性-不透明性」への定義が与えられている。とすればユニクロの「顧客自身のキュレーションが求められる」という特徴とは、顧客自身のリテラシーを問われる「不透明性」の"わかりづらさ"を感じさせる、といってよいはずである。またあるいは川久保に対して、DSMにおけるアート作品の設置にしても"わかりやすい"「透明性」があるとも言えるだろう。なにせ服屋なのにアート作品を設置するのである。わかりやすいことこの上ない。

そしてまたハーストについて「いわば「半透明性」の陳列であるがゆえに、幅広い層への訴求力が求められる」として不透明性と透明性の両面の効果を指摘している。ではもちろん川久保にも同様に「ファッション・デザイナーとしての創造性」というわかりやすい透明性とともに「ブラックボックスに閉じられたものであるがゆえに」半透明性と言っていいのではないか?

本稿は――川久保のカリスマ性に捕らわれつつも離反を目論み「ほめつつけなす」――典型的ギャルソン・ファンのふしぎな半透明性を、筆者自らがパフォーマティブに示した労作である。

『21世紀スローファッション試論』

「ファストファッションが全盛期を迎える現状への疑問がある。」

「しかし、ファストファッションにしてもラグジュアリーブランドにしても、19世紀後半以来のモダンファッションにおける逸脱的な突然変異なのではなく、むしろその正当な継承者であることを見逃すべきではないだろう。それらは複製芸術としてのモードと大量生産品としての既製服が混淆する地平に出現したのであるが…」

「ファストではないファッションを志向するとは(ポスト)モダンファッションと批判的に対峙することである。だからといって、よくある消費社会批判や市場主義批判のように、既製服を買うことを一方的に罪悪視するのではなく、ファッションの可能性をどう拡張できるのか、考えてみることが必要である。」

「 <スローファション>的なるものを、「ソーシャル」「サステナブル」「ローカル」「ロングライフ」の4つの視点から見ていくことにしよう」

 はじめに言っておかなければならないこととして、試論とは英語でいえば「essay」である。そう、エッセイです。――といって何かを言いたいというものではない。実際に読むとわかるように極めて実直な分析が行われている。オーガニックコットンや一澤帆布モリカゲシャツ、SOUSOU、エコマコ、イッセイの「132 5.」、matohu。多くの事例をもとに4つの視点から「スローファッション」を見てゆくものである。特に僕のようなさもしい精神を持つ人間というのはエコや環境などというものには疎く、恐縮するほどためになる。

しかしあえて言うならば、ファストファッションとモードが同じく「(ポスト)モダンファッション」の正統な継承者の地平にあるのならば、こうして「服飾文化の画一化」を危惧するわりにモードは多様なのではないかという疑問はわいた。消費社会や市場主義の地平ではファストもモードも同じだが、「多様性」とはそもそもからしてまったく別の地平の――恐らく究極的には抽象的な議論の――問題ではないのだろうか。

『生きのびるための衣服』

「人に一生があるように、衣服にも一生がある。」

「衣服におけるライフサイクルとは、原料採取、紡績、機織、編立、染色、裁断、縫製などの生産段階から、流通、使用段階を経て、回収、リサイクル処理、廃棄処分段階に至るまでの一連の流れを指し、国で考えた場合にはこれに輸出入の段階が含まれる。このようなライフサイクル全体を通じて対象の自然環境へ与える影響や人との関わりを思考することを、其飯(そのまま)「ライフサイクル思考」という。」

  前稿に続きこれもまた極めて実直な分析である。衣料品のリユース率やリサイクル率は一割・二割といったところで2000年代変わらないというのだ。それほどしか行われていないとなれば筆者の危惧もわかる。本稿もまた個別のさまざまな事例を見てゆくものだ。環境問題に興味のある方には衣料品がどうなっているのかを、衣料品に興味のある方には環境問題としてどうなっているのかを、是非とも読んで考えていただきたいと思う。

 

『衣服論事始め ―衣服と時間あるいはメゾン・マルタン・マルジェラと反時代的なもの―』

「人間は衣服なしに存在することができないのである。衣服と時間。これらはまさしく人間という存在の根底に刻まれたふたつのものなのだ。人間を通して、衣服は時間と出会う。ここで問題とされるのは、衣服における時間の諸相である。」

「(鷲田清一がギャルソンを、モードより速くなることでモードの現在主義から抜け出す突破口として見て取ったのは)しかし一方で、こうしたあり方は、現在以外の時間を認めないという点において、時間に対する視点を決定的に変えるわけではない。」

「抜け出すことの出来ない現在という地獄。これがモードの世界を定義づけるならば、ここで描くのはモード化されえないものとしての「衣服の時間」である。」

  もし順番に頭から『vanitas』を読んでいくならば、ここで打って変わっていかにも「批評」らしくなる。また聡い読者にとっては言うまでもなく、本稿の元ネタはフッサールの時間論批判である。内容は哲学の用語が頻出するわけではないが、恐らく聡くない読者には大変なものだろう。逆に、その聡い構図が読めればわかりは早い。では、そうした聡いやり方で読んでゆくことを試みる。

「時間における過去性がそのまま物質として現前化し、現在の内に入り込んできている。素材の過去性は現在へと統合され、なめらかに縫合されてしまうことはなく、むしろ現在においても過去として存続し続ける。こうした過去は、現在に吸収され、見えなくされてしまうようなものではなく、現在において、それをはみだすものとしてとどまり続ける。」

「こうした過去は、一種の物語だと言ってもよい。素材となったものが、衣服であれば、その当のものとして使用されてきた歴史がある。」

  古着風のテイストやリバイバル現象による過去の振り返り方というのは、「過去」を「過去」としてでなく、"今の地点から"振り返って見るのであって、結局のところそれは現在をあたかも起源であるかのように基点とした「現在主義」なのである。――この現在への収斂をフッサールは「過去把持」と呼んだ、

 それに対してマルジェラは、そうした「現在主義」のモード地獄に対してまったくの根本から徹底的に抗っている。現在にどうやっても回収されることのない過去の痕跡が、長らく脱構築的と呼ばれてきたような視覚上の特徴、つぎはぎやねじれを帯びて非対称的な形で現れる。虚飾された「過去」を単に振り返るのではなく、決してキレイでもなめらかでもないありのままの「過去」を「過去」のまま受け止めることなのである。――ハイデガーフッサールを批判して「過去・現在・未来」という枠組みを「既在・現在・将来」に改めた。「過去」は現在以前に「既」に「在」るのだ。

「おそらく衣服にアートの要素があることは否定できなくとも、また衣服は純粋な芸術作品ではない。その理由を時間性という観点から考察してみたい。」

「極めて単純化するならば、芸術作品においてある種の永遠性への志向が存在するとすれば、衣服においてはそれが原理的に不可能であるという点にあろう。」

  マルジェラ-ハイデガーの時間論から次章『生の時間/死の時間』はファッションとアートという関係性からはじまる。

「着ることのできない服は、それは服というよりオブジェである」という一文に、昨今のドメスティック・ブランドにとっては耳の痛い意見を勝手に読み取るまでが聡い読み方です。優秀な批評とは常に多義的なのです。

しかしそれだけにアートについての言及は見逃せないところがある。このアートの定義は、要するに古式ゆかしい神事じみた大芸術のことを指しているのではないか?少なくとも現代アートで永遠性への志向というのはほとんど希少だろう。しかしそれでもアートと名乗っているのだから「アート」の定義を狭めることなしに認めないわけにはいかない。だがこの批判点はハイデガーの影をあまりに見過ぎているため控えるべきだろう。(ハイデガーの名前を筆者は脚注で一度しか使わないのだから、こうしてことさら強調することすら不当だろう。)なにせハイデガーの芸術観とはモンドリアンのような作品すら認めないものなのである。

 そして最後の章『反時代的なものへ』で現在の状況を見ながらマルジェラに見て取るべき新しい時代のありかたが探られる。

「新たな反時代性の線を顕在化させること、おそらくこうした実践が衣服という領域においても求められているのだ。」

マルジェラというあまりに大きなテーマに対して、その大きさに見合うだけの大きな思索によって分析が試みられた。論述の物足りなさを感じるところもあるが、恐らくはどうやっても十分に語り尽くすことはできないだろう。vanitasと筆者自身とをある種の「反時代的なもの」として賞賛しなければならない。

(そしてなにより"使える"のが脚注である。ここは是非とも読んでいただきたい。)

 

後編へつづく。