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服飾・美術・予言






















「サスティナブル」VS「ファッショナブル」――ファッション村はなぜ地球環境を破壊することを好むのか?

 

DMにて質問をいただいた。

 

「ファッション村はなぜ、センスや知見の優劣を評論することを好み、サスティナブルな服を憎悪するのか」


「”ファッショナブル”と”サスティナブル”は相性がよくないのか、両立は不可能なのか?」

 

本稿はこの質問への回答である。

 

1.ファッション村とは?

ファッション村はその名の通り「ファッション」を至上価値とする村である。似ている村に変態村がある。

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変態村の主要産業が変態であるように、ファッション村にはファッションしかない。ファッション以外のことは何もわからぬ。ファッション村は、脳みそまでファッションアディクトでもある。マルジェラがどのシーズンまで関わっていたかで口角泡を吹き、リック・オウエンスのアイコラ写真を収集して遊んで暮して来た。けれども縫製とOEM工場に対しては、人一倍に敏感であった。逆にそれ以外なにも敏感ではなかった。ちなみに変態村の有名なダンス動画はこちらから見ることができる。映画史に残る名ダンスシーンなのでTikTokで流行ってほしい。

youtu.be

ファッション村は変態村と異なり、自然環境に恵まれていない。コンクリートジャングルで互いの服を格付けし合い、マウンティングを繰り返すメカニカルアニマルである。それだけでなぜファッション村が環境問題に無関心であるのか、明らかにも思える。ここで筆を折ってもよいが、しかし今回はせっかくいただいた質問なので真面目に回答をしていきたい。

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2.サスティナブル・サスティナビリティとは?

前提となる問題を整理する。

ファッションの話題における「サスティナビリティ」とは"Sustainable Development Goals"(持続可能な開発目標)を意味する。まずこの「持続可能」の主語についての問題がある。人類なのか、動物なのか、それとも地球環境そのものなのか。一般的には、ファッションの文脈ならば人類で良いはずだ。あくまでアパレル産業を持続させるために、その原資を枯渇させないようにし、未来の世代に発展を継続して託すという意味として解する。
これはエコロジーに連なる思想としては、かなり人類側、経済側に妥協的な考えである。過激派としては、エコファシズムやディープエコロジーなど、もっと環境寄りの思想潮流も多くある。わかりやすい過激派といえばシャアのアクシズ落としである。あくまで本稿では上記の程度の受け入れやすそうなエコ思想までを対象とする。

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3.「ファッショナブル」と「サスティナブル」の相性は悪いのか?

これは自明である。まったく相性問題というのは存在しない。予め結論を述べるが「ファッショナブル」と「サスティナブル」はまったく独立した問題である。
なぜならファッショナブルの根拠はその服のデザイン≒デザイナーであるのに対して、サスティナブルは環境負荷である。単純に言って、デザインと環境負荷はまったく関連しない。よっぽど環境負荷をかけなければ実現しないようなデザイン(例えば毛皮とか?)を行うのでなければ関係がないということだ。

いわば「デザイン至上主義」と「エコ至上主義」は両立可能ということだ。例えばヨーガンレールはそうだったかもしれない。オールバーズもそうかもしれない。(ただしどちらも客観的に見るとデザインがかなり悪いので、デザインも両立していると思っているのはファンだけかもしれない)
しかし相互に独立した信念体系であるにも関わらずファッショナブルとサスティナブルの両立は、なぜ難しいように感じられるのか?両立しているブランドを例示しようにもサスティナブルなブランドから感じる総じてダサいオーラはいかんとも説明しがたい。この感覚を言語化し、追及することが本稿の最終目的である。本来的にはありえない対立は、どこから始まっているのだろうか?結論付けるならば価値の「根拠」の違いが、解決不可能な相性の悪さ、その源である。

 

4.価値判断の根拠

ファッショナブル派とサスティナブル派で重視する価値の違いを簡単に図示する。

・ファッショナブル → デザイナー、デザイン、センス、トレンド
・サスティナブル → 環境負荷、生産背景、イデオロギー

 

これは言い換えれば以下のように概括可能である。
・ファッショナブル → 「経験的な価値」帰納的、アポステリオリ
・サスティナブル → 「先験的な価値」演繹的、アプリオリ*1

「経験的価値」と「先験的価値」の違いこそが決定的な、互いに憎しみ合い、理解を遠ざける源なのである。「ファッショナブルの経験的価値」とは要するに、自分で手に入れた経験や知識、磨いたセンス、買った服、そのコーディネート、色使いや丈感の合わせ方、またデザイナーを評価する審美眼、デザインを語る批評性、などを価値にしているという意味である。対して「サスティナブルの先験的価値」とは、地球環境への負荷、生産背景の労働環境、適正な賃金、トレーサビリティ、人権問題、気候変動への対応などである。

ファッション村は北斗の拳マッドマックス地獄の黙示録じみた好戦的な民族が多く、経験的価値のみが評価される。いや大人しい民族もいるが、基本的に乱交社会である。これはTwitterというタイムラインの形式ゆえに築かれた文化であり、いわゆるmixi2ちゃんねるのような特定のブランドのコミュニティに閉じこもるのではなく、文化の混じることを良しとしている。殴り合いと話し合いは表現技法の違いに過ぎない。ほとんどのファッション村の人間はただひたすら独り言として服の話をぶつぶつつぶやいているだけであるが、望ましくは同好の士による交流、文化の交じり、私見の議論、おすすめの紹介、男女LGBTQ異性同性交遊である。
あらかじめ決まった価値をひたすら肯定するような、例えばMB LABOの人間同士がMB氏の配信について熱く語り合うようなことをしない。ギャルソンオタク同士がギャルソンオタクみたいな会話を延々繰り広げることもしない。
それゆえに「サスティナブルの先験的価値」は遠ざけられるのだ。ドリス好きも異常に多いが、別にドリスの話題をずっとしたりはしない。Supremeの話もほとんどしない。バレンシアガの流行もまったく伝播していない。ただひたすら、孤独な発狂者が壁に向かって話しかけるようにツイートを行い、たまに応答が起こり、その応答に喜びを見出すのだ。

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5.ファッショナブル or サスティナブル / 先験的価値 or 経験的価値

構造を反転させ「ファッショナブルの先験的価値」と「サスティナブルの経験的価値」も加えて考察することで、以上の考察は簡単にまとめることができる。

 

a.ファッショナブル ∧ 経験的価値 → デザイナーを知っている知見、デザインを選ぶセンス、コーディネートへの取り入れ方、トレンドの解釈
b.ファッショナブル ∧ 先験的価値 → デザイナーネームバリュー、ブランドイメージ、トレンドの影響力、高いスペック
c.サスティナブル ∧ 経験的価値 → 生産背景を知っている知見、環境に良いものを選択する審美眼、イデオロギーを示す態度、丁寧な暮らし
d.サスティナブル ∧ 先験的な価値 → 低い環境負荷、生産背景の透明性、環境保護イデオロギー

 

つまりファッション村の人間はaを好むがbは好まない。

ジルサンダーは好むが、ジルサンダーのロゴTシャツを着る人間は嘲笑される。
アルマーニカフェには行くが、アルマーニでは買い物をしない。
ブランドでイキり散らすタイプや、1つブランドに極端に偏愛するオタクは好まれない。
ダッドスニーカーやエクストラシルエットを否定するわけではないが、流行りたてのヴェトモンには全く飛びつかなかった。

よく言えば落ち着きがあり社交的な竹林の七賢人だが、悪く言えば感度の悪いワガママな中流所得のプチブル趣味である。それゆえに、コネと金のパワーでなんとかなるようなファッションの価値観、つまりbの価値観を持っていない。bはコネと金さえあればセンスなしでも叶えることができる。更に踏み込んで言えば、bとdのような先験的価値は、あらかじめその価値が"良いもの"として固定されているために、コネと金さえあれば叶えることができるのだ。「コスト」を今よりも更にかけることが許されるなら、原理的に言ってどのようなブランドもサスティナブルを重視して生産できるだろう。また消費者も今より更に「コスト」をかけられるなら、ないよりはあった方がいいものとしてサスティナブル製品を喜んで買っていくだろう。しかし現実にはその制限を超えることは不可能である。どのような思想であれ、態度であれ、この後期資本主義下においては金がかかるのだから。完全にエコロジーな生活は未だ、完全な金持ちにのみ可能である。

 (余談だが尊敬するSUKEBENINGEN氏はかつて「古着でデザイナーズブランドを再現すること」を賞賛していた。これも明らかにaの価値観である。)

《書評》『ハイコンテクストなノームコア』は、じつはSUKEBENINGENの騙りである。 - Fashion,Fine-art,and Forecast.

6.結論と展望、そして闘争へ

これが表題の問いに対して最も根本的な回答である。解決不可能な相性の悪さ、その源は「経験的価値」と「先験的価値」の対立であると結論付けた。

 

では、どのようにすればファッション村の野蛮人に対して蒙を啓くことができるか、この煉獄のような地下世界にどうすれば理性の光を差し伸べられるのか、そのヒントもこの考察から導くことができる。例えばcのような「サスティナブルの経験的価値」には可能性がある。サスティナブル自体が武器になればよいのだ。経験的なレベルにイデオロギーを落とし込むとは、そういうことである。

 

ここからは私が語るべきではない。なぜならサスティナブル村とファッション村の永きに亘る闘争は、こうして今はじまったばかりなのだから(完)

第三次世界大戦がどのように行われるかは私にはわからない。だが、第四次世界大戦が起こるとすれば、その時に人類が用いる武器は石とこん棒だろう” --アルベルト・アインシュタインのサスティナブルな予言

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アインシュタインの予言

文責:DJ AsadaAkira

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*1:*「先験的」とは、経験に先立つという意味。経験するまでもなく決まっている、ということ。